第38話「自然な衝動の抑制」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 晴れた日曜日。
 明神山の足込町側の取りつき地点に下山した順正は、最初の分岐で左に折れた。まっすぐ進めば、栗原神社の参道につながる、人里へ出る道。左の分岐を曲がると、明神山の森と栗原神社の杜との境界線となっている道。
 三月に入り、花祭の時期が近づくと、明神山にはにわかに登山客が増える。そうでなくとも、気候が暖かくなり、春の登山シーズンに入る頃には、近隣の山愛好家が増える。花粉症の者は除いて…。だから、南天丸を放し飼いにしても気兼ねなく、そして静かに山を登れるのは、今月が最後かもしれない。
 厳冬の明神山登山は、順正にとって、さして問題ではなかった。寒いといっても、千メートルに満たない低山。雪は積もっても、長く残ることはない。登っていれば体は温まる。夏の暑い時期に登るよりむしろ快適だ。空気が澄んでいる。山を登り始めてしばらくは、木々と土のにおいを感じるのだが、二時間以上も同じにおいを嗅いでいると、そのにおいを感じなくなる。
 南天丸の後に従う形で、周囲に背の高い木々が立ち並ぶ狭い小径を歩いていく。行く手に、一つの倒木がある。順正はそこで足を止めた。最近見つけたお気に入りのスポットだった。
 南天丸は、主人の意趣を察知しているように、そこで歩みを緩めた。倒木に身体を近づけ、地面にクンクンと鼻を押し付ける。倒木の幹や、倒れた後の株には、シダやコケがついている。
 倒木の一つ手前の木の根元に腰を下ろすと、順正はその木の幹に背中を預けた。
 この辺りは、常緑広葉樹の群生地である。栗原神社の杜として保護されてきた貴重な森林であろう。アカガシ、ウラジロガシ、ツクバネガシなどのカシ類の大木がある。これらの大木の幹の直径は、一メートルに達するものもあるが、順正が背を預けているアカガシの木は、まだ若いほうなのか、幹の直径は五十センチというところ。
 照葉樹の大木が林冠に広く枝を広げるため、午前中だというのに、森の中は薄暗い。
 この神域の樹木に囲まれた場所で、順正はただ息をしているだけ。南天丸は倒木に身体を押し付けて遊んでいる。
 近くのヤブツバキがつぼみを膨らませ、もうあと数日のうちに、開花しそうであった。
 先月、順正が診察をしていた多胎の妊婦が出産をした。妊娠二十八週で切迫早産になり、NICU(新生児集中治療室)のある病院に転院し、間もなく出産となった。生まれてきた赤ちゃんは低体重児であり、双子のうち、もともとより低体重だった赤ちゃんのほうが、助からなかった。
 単胎に比べて、多胎は切迫早産のリスクが高い。多胎の場合、個人産院に通院すること自体どうかとも思う。妊娠期間は短くなく、何か起こらない限り入院することはできないことを考えれば、自宅から離れた大きな病院に通院することが現実的ではないのは分かっている。しかし、何かあった時、個人産院では対応できないこともある。
 名古屋市内の大学病院に在籍していた頃、助産院や個人産院で手を施せる範疇を超えた妊婦が運び込まれてくることはしょっちゅうだった。どのタイミングで、周産期医療を受けられる病院を頼るかという判断は、難しいところ。そして、難しいからといって、絶対に間違えてはいけない。
 その妊婦の転院先の病院から電話で報告があった時、順正は再び、過疎地域の産婦人科の立場の難しさを思った。
 産科医をしていると、このような悲しい報告を受けることは幾度もあるが、同時に、喜ばしい瞬間に立ち会うことも多い。もっとも、順正はどちらかというと、悲しい物事のほうに、意識と記憶が吸い寄せられる傾向があるのだが。
 前の月曜日は、ちょうど満月だった。
 満月と出産は重なる。それは迷信だと思っていたが、そうでもないかもしれない…と実感することがある。この間の月曜日がまさにそうだった。
 順正はその日、寝かせてもらえなかった。オンコールで最初の呼び出しがあってから、さらに二人の妊婦が産気づいた。初産婦が二人いて、難産や緊急帝王切開になる可能性も高かったため、結局、オンコール体制でなかった松下医師までが駆り出された。全員、無事出産した。その日はとてもくたびれたが、嫌な疲れ方ではなかった。
 ここに座っていると、それらの出来事がただ蘇っては、消えていく。幹に接している背中と、土に触れている腰、足裏、手を通して、地球に流れていく。その間、順正は悔しがったり、悲しんだり、喜んだりすることはない。様々な出来事があったこと、その出来事に自分が参加し、何らかの感情を持ったことを、ただ、観察し、手放していく。
 順正にとってこの作業は、意図的なものではなかった。こうしてただ呼吸をしていると落ち着くから、そうしている。
 冬の間でも植被率の高い明神山の麓の森、栗原神社の杜には、もうこれまでのような、乾ききった風は吹いていない。ニ月は冬の雨と雪で湿気が多い。水豊かな春が、もうすぐそこまで来ている。
 神域の樹木の間には、あたたかな湿気を含んだ、しかしまだ冷たい風が走っていた。

 順正が明神山の麓の森にいた頃、蓮は前原のジムニーの助手席に座っていた。
 長久手市(名古屋市の東側)の登山・アウトドアショップで、車を降りる。ショップのウィンドウには、ライフジャケットを着た大きな熊のぬいぐるみと、カヌー。
「藤野さんが、二月から川釣り解禁するから、そろそろ年パス買わなきゃって言ってた」
 河川で釣りをするには、遊漁券を携行することが必要になる。遊漁券を買わずに、無許可で釣りを行うと密漁となるのだ。
「前原さんは、釣りはしんの?」
「そうだなぁ…」
 子供の頃は、ジムの先代のオーナー・鮎太郎に教えてもらって、瑠璃子や安藤と一緒に川釣りや川遊びをしていたものだが。
「蓮、クライミングシューズはこっちだぞ」
「あ、そっか」
 蓮は春山登山用の新しいウェアに目を奪われていたが、前原は目的のアイテムへ直行する。蓮が新しいクライミングシューズがほしいというから、品定めに連れて来てやったのである。せっかくの休日を奪われるような気もして気が進まなかったが、自分も新しいギアがほしいと思っていたし…と、理由を作った。
「あたりはつけとんの?」
「まさか。下調べとか全然してないよ」
─エラそうに言うなよ。
 前原はシューズの棚の前で棒立ちになって、心の中でつぶやいた。
 蓮はクライミングシューズをざっと見渡し、手当たり次第に手に取った。
「全部履いてみていいかな?」
「全部?」
「じゃないと、履き心地が分からないじゃんか」
「お前の足のサイズあるのか?」
「紐は嫌なんだよね」
 答えになっていない。
「おい、蓮。履き心地もいいけど、足形を見て、自分に合う形を調べてもらえよ」
 足形に合ったものほど、フィット感がある。合わないタイプは、最初から選択肢から除いた方が良い。それに今後、シューズを買い替える時、毎回ショップで試着できるとは限らない(というか、毎回連れて行くのは嫌だ)。
「前原さんが見てよ」
 前原はちっと舌を鳴らしながらも、蓮を椅子に座らせ、右足の靴と靴下を脱がせた。
 蓮は親指が長いタイプで、かかとの形は直角型。
「うん。日本人のノーマルなタイプだな」
「…ってことは?」
「足先がとがったタイプだと、指が痛くなりやすい」
「それは嫌だな」
 足が痛くなると、シューズの着脱をより頻繁にしなければならない。
「かかとの傾斜が強い靴だと、かかとが浮くかもしれんな」
「じゃあ、ヒールで脱げたりする?」
 蓮の言うヒールとは、ムーヴの一つ。かかとをホールドにひっかけて登る動きのことだ。
 前原は首を傾げた。
「分からんな」
 蓮が今後、どういう課題に挑戦したいか、ねらいによっても、選ぶシューズは異なってくる。
 蓮が試着をしている間、前原は店内をうろうろし、クライミングの道具やウェアを見た。が、直近でどこかへ登りに行く予定もなく、いまいち購買意欲が湧かない。
「選んだ?」
「うん。これ」
 蓮は「NINJA」という名前のシューズを指差した。ややターンイン(つま先が親指側に集まるように成形されたもの)、スリッパタイプだ。
「ふうん」
 前原は札を眺め、スマホを開いて操作した。
「何調べてるの…?」
 前原はすぐには答えず、少しの間画面に見入って親指を動かした。
「これ」
 画面をのぞき込むと、フリマアプリで出品されている、同じ型の中古のシューズが出て来た。
「えっ、中古を買うの?」
「お前、金ないだろう」
 蓮は「うっ」と呻き、首をすくめた。
「二、三回使ったっていうくらいなら、伸びも心配ない」
 使用頻度が高くても、一、二年はもつだろう。もっとも、蓮の足のサイズは今後数年間変化し続けるだろうから、短期的使うという前提だ。
「くぅ…」
 中古に抵抗感はそこまでなかったが、今日シューズを手にして帰るつもりで、なけなしのお小遣いを持ってきていたから、蓮は迷った。
 ピコン、と蓮のスマホが鳴る。前原からラインで、今見ていたサイトのURLが届いた。
「浮いた金で、ジムの定期パス買えば」
 
 同じころ、杏奈は美津子のエヌボックスで、名古屋市名東区まで車を走らせていた。
─こんなにも長旅ができるようになるなんて…。
 片道一時間半近く。小須賀にどやされながら、あかつきと足込温泉を行き来した日々を思い出すと泣けてくる思いだ。
 杏奈が訪れたのは、飲食店向けの業務用資材や食品を売る業務スーパー。オンライン料理教室の開講に向けて、生徒にスパイスなどの非加工品を送るための、資材を探しに来た。スパイスやドライ製品の郵送可否については、足込町役場の保健センターで確認した。卸売りをするのではなく、「教材」として送るのであれば、非加工品については問題ないとのこと。
 次は、いかに低コストで、生徒にとって都合の良い形で送れるかが課題だ。
─対面の料理教室の時には、考えもしなかった。
 スパイスやドライ製品自体にかかるコストと、それを入れる資材、配送料を、受講費に含めて提示しなければならない。
 杏奈は二階の業務用包装資材売り場で、小さなガラス瓶とにらめっこしていた。瓶入りのスパイスが届いたら、生徒は「ワオ!」という反応をするだろうと思う。だが、瓶は割れ物なので、クッション材が必須。厚みがあるので、配送料がかかる。瓶入りで送ることのメリットは、高級感、生徒の作業性の良さである。デメリットは、ある程度瓶いっぱいのスパイスを入れないと、貧相に見えてしまうこと。生徒がすでに当該スパイスを持っていた場合、瓶は不要になり、捨てられる可能性があること。これは資源の無駄である。
 スパイスを棚いっぱいに並べるなら、自分の好きな形状の瓶に統一したいと多くの人は思うだろう。そこに、低コストだけが売りの、違う瓶を送り付けられてきたら、あまりいい気はしない。つまり、万人に都合の良いものを送るのは不可能なのだ。
 だとしたら、あかつきとしてはやっぱり、コストを第一優先に考えざるを得ない。
─使い切りスパイスを、ポリ袋に入れて配送する。
 使い切りなら、スパイスを袋に戻すという作業は発生しないので、ジッパー部分にパウダーがたまって閉めにくくなる、というようなことは起こらない。ポリ袋は極めて薄く、軽く、割れない。封筒に入れて郵送が可能だ。
─強度が弱いというデメリットはあるな…
 封筒の中で袋が破れ、パウダースパイスが漏れてしまったら大悲惨だ。
 杏奈は、今度はポリ袋の陳列棚の前で立ち尽くした。ポリ袋にもいろいろなタイプがあり、いろいろな大きさがある。
─ああ、現物を持ってくるのだった…!
 この間、羽沼に豆、米、スパイスを渡した時のように、適当な袋に食材を詰めて持ってこればよかった。そうすれば、ベストなサイズが分かるのに。
─いや、待てよ…
 パウダースパイスはともかく、豆と米は厚みがある。先に、目標とすべき配送料と、その配送料を実現するために、超えてはいけない厚み、重量を把握する必要がある。
 杏奈は美津子に電話をした。実は、配送手段の検討にあたって、実物の資材を見に行ったほうがいいと言ったのは美津子であった。
「美津子さん、すみません。キッチャリーのレシピを見て、郵送する食材の重量を計っていただけませんか…?」
 資材を目の前にして初めて、杏奈は必要なことが分かってきた。
 美津子からの折り返しがくるまでの間、杏奈は日本郵便の料金表を眺め、目標を定めた。
─定形外郵便、厚さ三センチ以下、重量百グラム以内…!
 もしその規定に収まれば、送料は百四十円(当時の値段)。日付指定不可、ポスト投函。郵便がお休みの日の配送はなし。
─これは、お申込み時に言っておかなければならないこともたくさんあるぞ…。
 というか、こちらで決めなければならないことがたくさんある。お申込みのタイミングによっては、食材が届かない可能性があるが、配送料をかけてでも届くようにするのか。その場合の費用負担はどうするのか。あかつきの基本スタンスを決めて提示し、ご了承をいただいたという形を取らなければならない。
 美津子から電話がかかって来た。
『食材だけで、総量八十八グラム』
「八十八グラム…」
─微妙~。
 杏奈は泣けてきた。諦めるにも、諦めきれない重量だ。
「それは、食材だけの重量ですよね?袋の重量は加算されていないですよね?」
『ええ』
 ということは、ポリ袋四つ、封筒、切手の重量を入れて、あと十一グラム以内に収めなければならない。ポリ袋と切手自体はそんなに重くない。せいぜい四グラム程度だろう。
 問題は封筒だ。中に入れるものは重量がある。あまり薄すぎても都合が悪い。
「厚さは、平らにならせば、三センチ以内に収まりそうでしょうか?」
『やってみるわ』
 電話は再び切れた。
 杏奈はさらに、日本郵便や他の運送会社の配送手段で、安いものはないか探した。
─あ、これいいかも。
 日本郵便のスマートレターは、全国一律料金で、一キロまでの制限で、百八十円。
 ただし、厚さは二センチまでと、より厳しくなる。
─重量を抑えられない場合は、これを利用することになりそうだな…
 その場合、四十円のコストアップであった。
─四十円なら、許容範囲か…!
 正直、あかつきの滞在費や施術費、経費に比べれば、料理教室の単価、経費はあまり問題にならない規模である。
 美津子からもう一度電話がかかって来て、ポリ袋に入れた状態で、三センチ以内に収まりそうということであった。
 杏奈は今度は、ならした場合の面積を尋ねた。大きな封筒を使えば、それだけ重量もかさばる。一度に伝えられればいいのだが、後から後から、次のことが思い浮かぶ。
─初めての企画をする時は、でも…
 こんな感じなのだろう。
 思い浮かぶ限りの確認事項を調べた後、杏奈は、いくつかの資材をカゴの中に入れた。もしかしたら、無駄な買い物になってしまうかもしれないけれど、試してみないことには分からない。
 現物確認後、今日買った資材でうまくいきそうであれば、今後は、ネットで資材を購入する。
─迷ったら、現物確認だよ。
 以前働いていた会社で、商品の破損原因を調べなければならない案件があった。杏奈はその時の、上司の言葉を思い出した。今でも時々夢に見る、懐かしい声…
 前職と、現在のアーユルヴェーダの仕事には、なんのつながりもないと思っていたけれど…
─どこかで生きてくるものなんだな…

「は?お前、柴崎さんにラインしたの…?」
 アウトドアショップの近くのファミレス。
「うん。既読になったけど、返信はなかった」
 蓮は臆面もなくそう言うと、スマホの画面を前原に見せた。
─次はいつジムに来ます?
─今週日曜、ジムに来ますか?
─今度外岩行く時には教えてください。
─柴崎さん。
─柴崎さーん。
─(既読なのは分かってるよ。という文字が入ったスタンプ)
 蓮の言うとおり、全て既読はついているが、返信はない。
 前原は対面に座る蓮を見て呆れた。
「あまり馴れ馴れしくするなよ」
 スマホを返しつつ、忠告する。
「癇に障れば蹴っ飛ばされるかもしれんぞ」
 というか、すでに癇に障っているのでは?と思いつつ、忠告する。
「大丈夫。物理的に会ってないから」
 至極冷静な物言いである。
─そりゃそうか。
 前原は、なんだかアホらしくなった。それにしても、なぜこれほどコンタクトを取りたがるのだろう。
「柴崎さんに憧れてんの?お前」
「う?うーん…どうなんだろ」
 蓮はずい分、歯切れの悪い回答をした。
「かっこいいし、クライミングは上手だし、医者っていうのもすごいと思う。けど…」
─なんか違うな。
 そういうところではない。蓮は水を飲みながら、目線を上に向けて泳がせた。
「そうだ、仲間意識かな!」
「仲間意識…?」
「うん。柴崎さん、誰とも馴れ合わないじゃん。孤高の人っていうか…なんか、おれと同じだなと思って。同士って感じ?」
「お前…やっぱり、いつか柴崎さんにぶっ飛ばされるぞ」
「そうかなぁ?」
 はあ…と前原はため息をついた。もし順正の癇に触れてしまったら、誰がそれを収めると思っているのか。
 料理が運ばれて来た。蓮はミックスピザ、前原はカツカレー。
「お前、また背、伸びた?」
「そう?」
 蓮はさっそく一切れ口に入れた。
「母さんには、やっと学ランが馴染んできたって言われた」
「お前、中一?」
「知らなかった?」
─中一か…
 子にもよるが、そろそろ無口になってくる年頃だろうに。もう少し思慮深くなり、分別がついてくれば、順正に一方的にラインを送るようなこともなくなるだろう。
 それにしても、思ったことをすぐに口にし、行動しているようにしか思えない蓮が、学校で「孤高」になっているとは。それは孤高ではなく、孤立ではないのか。前にも事情は聞いた覚えがあるが、前原にはどうも、蓮が孤立するようなタイプには見えない。
「お前、友達はいるのか」
「いるよ…仮の友達が」
「なんだそれ」
「だって、学校じゃ誰かとつるんでなきゃいけないじゃん。でも、おれは別にそいつらとつるむの好きじゃないんだよ」
 早くも中二病だ。
「蓮。友達は大事だぞ。同学年の友達はな」
 蓮はむすっとした。
「いいんだよ。なんかみんな、子供っぽいし…」
 親友と呼べるような友達は、学校に一人もいなかった。
 蓮はいつの頃からか、同級生と自分とのちょっとした差に気付くようになった。たとえばそれは、個食になる頻度だとか、旅行の規模だとか、家庭で季節のイベントをするかどうかとか、小さなことだった。蓮の家庭は、家族で何かを楽しむことが少なかった。母のすみれはいつも忙しく、時にイライラしていて、もう一人の家族である祖母・うめは、蓮が誰であるかも分からない。うめの介護のため、蓮とすみれが二人そろって長い間家を空けることは、ほぼできない。家族旅行など、もう何年もしていなかった。他の子を羨ましいと思う気持ちからか、いつからか、その子たちとの距離を取るようになってしまった。そうすれば、羨ましいと思わなくて済むから。
 母子家庭、祖母の介護。これらを口実に、部活をずる休みするようになったり、学校外で友人と遊ばなくなったりしてしまった。そんな蓮を面白く思わないクラスメイトは、時に心無い言葉をかける。
─羨ましいなんて、思わなければ…
 仲の良かった友人たちとの付き合いを続けられたかもしれないのに。
 しかし、家庭環境を比較して、羨ましく思ったりみじめさを感じたりしたなんて、言えない。蓮は最近、そう思うようになった。藤野にも、この前原にも。自分はまだまだ子供です、と言っているようなものだ。
「蓮…身長伸ばしたいって言ってる割に、ピザなんか頼んで大丈夫か?」
 しばらく無言で食事をしていたが、前原の方からその沈黙を破った。
「なんで?」
「そんなの、ほとんど炭水化物と脂質だろう」
「えっ、そうなの?でもチーズってたんぱく質でしょ?」
「…まあ、栄養摂ってりゃデカくなれるってわけでもないけど」
「そうだよ」
 蓮はピザを頬張って、モゴモゴ口を動かした。ピザ一枚と、前原のカツカレーも少し貰い、蓮はお腹がいっぱいになった。帰ったらジムに行く予定だったのだが、こんなに体が重くなって大丈夫かと思う。
「蓮くん」
 そんな蓮に、前原の方からまさかの提案があった。
「いちごパフェ頼みたいんだけど、ちょっと食べない?」
 期間限定メニュー。女子が好みそうなかわいらしいスイーツだ。
「いいよ…でもなんで?」
「いや、甘い物食べたいんだけど、全部食べるのも罪悪感が…」
─甘党かよ!!
 そういえば、前原はよくジムで甘いパンやスイーツを食べている。中野に、それだと筋肉がどうのこうのと言われていたっけ。
 前原がタッチパネルを操作し、注文完了の音が鳴るのと、ピロリン、と前原のスマホが鳴るのがほとんど同時だった。
「お、明日の朝には発送するって」
「え?」
「クライミングシューズ。買っといたぞ」
 蓮は、目を大きく見開いた。
「あれでよかったんだよな」
「…ありがとう!」
「よく考えれば、お前、電子マネーもクレジットも持ってないんだもんな」
 蓮は顔が綻ぶのを抑えられない。
「ありがとう。さすが前原さん、かっこいい!」
「金は、次にジムで会った時でいいよ」
「…」
「…」
 蓮と前原の間に、再び沈黙が流れた。
「は?」
 蓮は顔を身体より前に突き出し、聞こえなかった風を装った。
「金だよ、カネ」
「買ってくれたんじゃないの?」
「立て替えてやっただけだよ」
 蓮は酸っぱい梅干しを食べた後のように口をすぼめ、顔をくしゃくしゃにした。
「うーん、ケチ…!」
「当たり前だ。おれはお前を子供だと思ってないからな」
「う…!」
 他の同級生を子供呼ばわりしたことを、逆手に取られるとは…!
「そんなケチじゃ、ナベちゃんに嫌われちゃうぞ!」
「なんだと、こら」
 前原は蓮の椅子の足を軽く押した。
「ここは奢ってやるから、靴は自分で買え」
「…はい」
 もともと、買ってもらえるとは思っていなかったが、だめだったか。

 その日、杏奈はあかつきには帰らず、名古屋市のベッドタウンにある実家へ帰った。正月にも帰省したばかりだけれど、通り道なので寄って来ればよいと、美津子から提案された。
 帰宅した時、古谷家ではちょうど昼食にするところだった。裕太たち一家も一緒である。
「こんにちは」
 杏奈はリビングに入ると、こはるに挨拶をしてちょこっと頭を下げる。それからすぐに部屋に直行して、荷物を置き、再びみんながいるところへ戻った。
「杏奈、ごはん食べるんでしょ?」
 キッチンとダイニングテーブルを忙しく行き来しながら、陶子が尋ねた。
「うん。なんかあれば」
「待ってね。あんたの分の麺今から茹でるから」
─麺…
 麺は麺でも、ラーメンだった。麺とスープの素入りの生ラーメンに、炒めた豚肉とキャベツが乗っている。ものすごく久しぶりなメニュー。
「この前来たばっかりなのに、珍しいね」
 陶子は鍋を覗き込みながら、自分の背後に立って、棚から湯呑を出す杏奈に言う。
「うん。近くで買い物があって」
「ふうん。なんの?」
「資材」
「?」
「今度、スパイスを郵送する仕事ができて、そのための資材を買い出ししてたの」
 まさか、こんなに自分が郵便マニアになるとは思わなかった。
「ふうん。なんかよう分からんけど、お疲れさま」
 四人用のダイニングテーブルには収まらない人数がそこに集っていた。陶子、裕太、こはる、芽衣、正博。今日は杏奈がいるから殊更椅子が足りない。
 裕太とこはるの長男、陽斗は、リビングのソファの近くで仰向けに寝かされているが、起きている。
 杏奈は陽斗を覗き込んだ。乳幼児期から思春期までの子供は、主にカパドーシャが台頭する。まだ生まれて半年しか経っていない陽斗は、全身がふっくらしていて、特に頬は落ちてしまいそうなくらい膨らんで、瑞々しかった。
「杏奈ちゃん、ここに座りな」
 正博はダイニングチェアを指さした。自分はパソコン作業用のデスクチェアに座っている。
「うん」
 正月以来の我が家は、相変わらず元気な芽衣と、時々泣き叫ぶ乳児の陽斗、その世話をする四人の大人がいて、賑やかだった。
「あんた、ここまでどうやって来たの?」
 ラーメンの入った丼を杏奈に渡しながら、陶子が訊いた。
「オーナーが車貸してくれて、運転してきた」
「ええっ、一人で!?」
 陶子は目を見開いて、びっくりしていた。正博も同じリアクションをする。
「大丈夫なのか。帰りは送ってってもいいぞ」
 去年の六月頃まで、杏奈の運転する車に同乗するのは命がけだった。片道一時間半ほどの距離を一人で運転できるまでになっているとは、正博にはにわかに信じがたく、心配だった。
「いいよ。お父さん帰れなくなるじゃん」
「杏奈が運転ねぇ」
 裕太は両親ほどのリアクションは見せなかったが、意外だと顔に書いてあった。
「きょう、おうちかえる?」
 芽衣は、小さな丼の中のラーメンをフォークで危うげにかき混ぜながら、まんまるな目を杏奈に向けた。
「ううん。今日はここに泊まるよ」
「おうちいる?」
「うん」
「おうちいるの。やったー」
 たまにしか帰ってこない、しかもろくに遊び相手になることなく、すぐ出立してしまう伯母にも、芽衣はそんな嬉しいことを言ってくれる。もう少しで三歳になる芽衣だが、すくい上げたラーメンをほとんどお椀の中に落としてしまった。隣にいる裕太とこはるが慌てて補助をする。
 昼食後、杏奈は食べ過ぎた感じがあった。久しぶりの麺料理だし、陶子がたくさん食べさせようとするので、思いがけずいつもより食べてしまった。
 二階からパソコンを下ろして、ダイニングテーブルでそのまま作業をした。美津子へ買い出しの状況と、明日の帰宅時間を報告する。
「コーヒー飲む?」
 やっと洗い物を終えた陶子の隣に正博が立ち、杏奈に訊く。
「ううん。いらない」
 コーヒーとはまた、久しぶりな響きだ。飲めば、頭がしゃきっとしそうでそそられたが、杏奈は遠慮した。
「あんた、邪魔だねえ。せっかく洗い物終わったのにまた洗い物増やすのか」
 陶子は棚からコップを取り出す正博に、小言を言った。いつものことであった。

 杏奈はその日の午後、仕掛り中の仕事を少し進め、その後で気晴らしに近くのショッピングモールへ買い物に行った。
 古谷家の夕飯は、あかつきよりも一時間ほど遅い。しかし、六時半くらいになっても、杏奈はあまりお腹が空いていなかった。
 夕ご飯も裕太家族を交え、大人数で食べた。ごはん、みそ汁、ハンバーグ。ポテトサラダ、ミニトマトなど。芽衣がいるので、基本的に芽衣が食べられるもので献立が組まれていた。
「杏奈、明日のお昼は余っているもので適当に食べてね」
「うん」
「悪いね。明日、お父さんもお母さんも仕事だから」
「うん。大丈夫だよ」
「日中は、私と陽斗はいるよ」
 こはるは杏奈に、愛想よく言った。実家の隣には、裕太たちの新居がある。
「いつまでいるの?」
 裕太は杏奈にそれとなく尋ねた。
「お昼過ぎかな。暗くなるうちに帰るつもり」
 美津子には、ゆっくりして来ていいと言われたのだが、実家にいても家族は出払っていて、結局仕事や勉強をするだけだ。
「うん。暗くならんうちに帰ったほうがいい」
 正博はやはり、杏奈の運転に不安があるようだった。
 杏奈は、夕食後あかつきのインスタに投稿をアップした。この作業は休日であろうと、どこにいようと、杏奈が行うことになっている。杏奈が自分から希望した業務だ。しかし傍からみると、長い間ずっとスマホを触っているように見える。
「あんたは家に帰ってきても、パソコンやスマホが手放せんねぇ」
 陶子は感心というよりはむしろ、呆れたように言った。
「うん。ごめんね」
「謝らんくてもいいけどさ」
 裕太たち家族が新居に戻った後で、陶子はやっと、コーヒーを片手にダイニングテーブルに座って一息ついた。
「コーヒー飲もうかな」
 正博はリビングのソファに座っていたが、よいしょと腰を上げる。
「自分でやってね」
 陶子はにべもなく言った。
「その前に、ちょっとトイレ」
 正博はリビングダイニングを出ていった。
「あんた、ちょうどいい時に帰ってきたわ」
 陶子が気がかりなことを言った。杏奈はスマホから顔を上げた。
「お父さん、ちょっと前まで調子が悪かったから」
「そうなの?」
「うん。夜中にいきなり呻いて…」
 年が明けて間もなく。ある明け方、正博が下腹部痛を訴えだした。尿意があるのに、尿が出せない。
 陶子は急遽仕事を休み、正博が病院に行くのに付き添った。受診結果としては、尿閉(膀胱に大量の尿が貯留し排出できない状態)が起きているとのことだった。それからしばらく、自己導尿(自分で尿道に細いカテーテルを挿入し排尿する)し、二月に入ってようやく取れた。
 尿閉の原因は、前立腺肥大症。
「もともと前立腺に問題があったんだけどね」
 正博は、トイレが近い。そういえば正月に帰った時も、正博が夜中に何回も起きるから眠れないと、陶子がぼやいていた気がする。
「大変だったね」
 杏奈は言いながら、口元に指を当てた。
─前立腺の問題…
 陶子はコーヒーを置き、お菓子の包みを開けた。
「まあ、この歳になればみんな、どこかしら悪くなってくるもんだわ」

 正博と陶子が寝室に入ってからも、杏奈はしばらく、ダイニングでパソコンと向き合っていた。
─前立腺の問題。
 杏奈がパソコン上に設けている勉強ファイルには、前立腺に関するアーユルヴェーダの知識は無かった。あかつきを訪れるのは、九十五パーセント以上、女性。前立腺はノーマークだった。
 ネットで前立腺の問題に対するアーユルヴェーダの見解を調べる。日本のサイトよりも、海外のサイトで探った方が、情報は入手しやすい。いくつかのサイトや論文を見ながら、杏奈は有用な情報を勉強ファイルに入力していった。
 前立腺は骨盤(バスティ)の障害。アパーナヴァーユが閉塞、あるいは上向きに上昇し、前立腺が枯渇した状態になる。アパーナヴァーユは、本来下向きに流れるヴァータのエネルギーである。それが逆流しているということだ。これにより、排尿時の痛み、排尿障害、尿の滞留が起こる。これらの症状には、いくつかのスロータムシが関わっている。
 スロータムシとは、体内に流れるエネルギーの経路のこと。スロータムシは複数形の呼び名であり、単数形はスロータ(srota)。
 経路というと、血管やリンパ管、それこそ尿道など、目に見える管のことを思い浮かべるかもしれない。スロータは、そのような目に見える経路はもちろん、目に見えない微細なレベルのエネルギー経路のことまでを含む概念である。物理的なものだけでなく、感情や思考のような、形のないものも運ぶ。十四のスロータムシがあり、女性にはこれらに加え、二つの女性特有のスロータムシをもつ。
■外側から内側へ風、食べ物、水を取り入れる3つの経路
・プラーナヴァハスロータ:生命力(呼吸、酸素)を運ぶ
・アンナヴァハスロータ:口から腸につながる食べ物(アンナ)が移動する
・アーンブヴァハスロータ:体全体に水と体液を輸送する
■ダートゥへつながる7つの経路
・ラサヴァハスロータ:乳糜、リンパ、血漿を運ぶ
・ラクタヴァハスロータ:血液循環に関与する
・マンサヴァハスロータ:筋肉の構築と維持に必要な物質を運ぶ
・メードーヴァハスロータ:脂肪の形成とバランスに必要な物質を輸送する
・アスティヴァハスロータ:体内の骨組織を作る材料を運ぶ
・マッジャヴァハスロータ:骨髄と神経組織に栄養を運ぶ
・シュクラヴァハスロータ:精巣から陰茎までのすべての構造を含む男性の生殖器系に精液・栄養を運ぶ
■排泄を司る3つの経路
・スヴェーダヴァハスロータ:汗の輸送経路
・プリーシャヴァハスロータ:便を運ぶ経路
・ムートラヴァハスロータ:尿を運ぶ経路
■心につながる経路
・マーノヴァハスロータ:感覚と行動情報、思考や感情を運ぶ
■女性特有の生殖と出産に関連する2つの経路
・アルタヴァヴァハスロータ:月経血や女性の性的分泌物を運搬
・スターニャヴァハスロータ:母乳や乳汁分泌に関わる
 ヴァハは運ぶ、スロータは経路という意味である。
 過剰なドーシャや、スロータムシ経路中の老廃物の蓄積は、スロータムシの誤った流れを引き起こす。以下四種類の誤った流れがある。
一.流れが過剰
二.流れの不足
三.流れの閉塞
四.誤った場所から流出
 排尿障害や排尿困難に関わるスロータムシの一つは、ムートラヴァハ・スロータ。膀胱や腎臓とつながる、尿を運ぶ経路である。肥大した前立腺がこのスロータの流れを遮断(流れの閉塞)しても、アパーナヴァーユ(下向きの風の流れ)が正常通り流れていれば、問題は腎臓と膀胱の間に留まる。しかし、もしアパーナヴァーユが乱れ、正常とは異なる上向きの流れになっている場合、腎臓と膀胱の間にあったアーマや不純物が、肝臓に吸い上げられ、最終的に血液にまで影響が及ぶ。乱れたヴァータが、ピッタをも乱していく。汚れた血液は循環し、その人の影響を受けやすい(弱い)領域に沈着して、問題を起こす。
 もう一つが、シュクラヴァハ・スロータ。生殖器官へ栄養やオージャス(活力素)を供給し、老廃物を排出させる経路である。このスロータの詰まり(流れの閉塞)は、睾丸や陰茎の痛み、性交痛、早漏、過剰な性欲、前立腺肥大を引き起こす可能性がある。
─問題は、主に二つのスロータムシの閉塞と、ヴァータの乱れ。そこからの、ピッタの乱れ…?
 とはいえ、今出てきた登場人物─腎臓と膀胱、肝臓、前立腺、二つのスロータ─にだけ問題があると捉えるのは、ホリスティックな考え方ではない。アーユルヴェーダでは、アロパシー(対処療法)が捉える臓器や、器官や、腺を、別々に見ることはない。全ては影響を与え合い、繋がっていると考えている。
 大切なのは、スロータムシを詰まらせた原因、ヴァータが乱れた原因を排除することだ。今は前立腺に問題が現れているが、これを排除しなければ、体の他の部位にも問題が起きる可能性がある。
 アグニの弱化、アジェールナ(消化不良)はもちろんのこと、杏奈が閲覧しているサイトによると、アーユルヴェーダの経典には次のような原因が挙げられている。
・自然な衝動の抑制(尿意の我慢など)
・断食
・過度の運動
・過度の性交
・収斂
・苦味
・刺激的な食べ物の過剰摂取
・アルコール
・肉の過剰摂取
 特に、過剰な性行為が原因として強調されているが、正博の場合は、この原因はあてはまらないだろう。
 陶子の言うとおり、単に加齢のせいともいえる。しかし、同じ年齢でもある人には前立腺の問題があり、ある人にはないことを考えれば、自分にできることをみすみす見過ごしてしまうのも、もったいないといえる。
 前立腺の肥大に直接関与するものとして、ラサヴァハスロータの閉塞も指摘されている。それは血漿とリンパの流れに関与する経路で、大腿部においてこの流れが閉塞すると、前立腺の肥大につながるらしい。
─対処法は…
 原因の裏返しが対処法である。
 アグニを強化し、アーマを追い出し、スロータムシの流れを正常に戻す。アパーナヴァーユ、ランジャカピッタ(肝臓・血液などに存在し、解毒を司るピッタのサブドーシャ)に乱れがあるため、ヴァータとピッタの両方をバランスするアプローチが必要だ。
・胃にもたれる食べ物、冷たい食べ物、粘液を形成する食べ物を控える
・心配をしない
・食事中、食後に大量の水を飲む
・尿意の抑制をしない
・心理的身体的トラウマを避ける
・過度の旅行を避ける
 …
 対処法は枚挙にいとまがない。
 しかし、正博にとって一番効果的な対処法はなんなのだろう。それを特定するには、乱れの原因をつきとめなければならないが…

 翌朝、杏奈は一番遅くに寝床から出て来た。陶子は忙しく朝食と弁当を作り、正博はテレビのついたリビングで、ソファに座って新聞を見ていた。
「お父さんって、今、クール便で食品配達する仕事してるんだよね」
 杏奈は寝間着のまま、正博に尋ねる。
「おお」
「やっぱり、トイレ行こうと思っても、すぐに行けないの?」
「コンビニとかあるから、行こうと思えば行けるよ」
 正博は新聞をなんとなくめくる。
「でも、何時までにどんくらい配送するっていう、ノルマが決められててねぇ…」
「急いでて、我慢することとかあるの?」
「というか、我慢しなくていいように、あんまり水を飲まんようにしとるかもしれんねぇ」
 杏奈は唇を舐めた。
「けっ─」
「今の会社もね、二、三年務めて、まあ終わりかなと思っとったけど、やめよかなって話した時に引き留められて、もう四年目…」
「そうなんだ。で─」
「へへん。お父さん、結構成績いいほうなんだよ」
 杏奈が言葉を継ごうとする度に妨げられて、杏奈は、何を訊こうと思っていたのか、分からなくなってしまった。
「えっと…とにかく、尿意は我慢しないほうがいいんじゃないかな」
 唐突にそんなことを言われて、正博はちょっと不思議そうな顔をした。
「昨日、起きちゃった?」
「え?」
「夜中は頻尿なんだけどね、日中はそんなことないんだよ」
 正博は、自分が夜トイレに立って、そのことが気になるから、杏奈がこんなことを話しているのだと思ったらしい。
 説明が足りなかった。
「朝ごはんできたよ」
「はぁい」
 杏奈と正博はダイニングテーブルで朝ごはんを食べた。ご飯と味噌汁と納豆。正博は、納豆を好まないため、あさりのしぐれ煮でご飯を食べていた。食後には、コーヒー。
「お父さん、コーヒー、結構飲むね」
「うん。コーヒー飲むと、口の中が締まる感じがするからね。へへん」
─へへんじゃねえよ…!
 杏奈はそう言いたい気分だった。
 コーヒーは、苦味で、収斂作用があり、利尿作用があるため脱水を促進し、ヴァータを乱しやすい。さらに、胃に刺激を与え、ピッタをも乱しやすい。
「ちょっと前まで、尿道に管入れてたんでしょ」
「ん?うん…」
「また詰まっちゃうかもよ?白湯とかにしといたら」
「コーヒーでは詰まりゃあせんよ」
 そう言ったのは、正博ではなく陶子だった。笑ってさえいた。コーヒーで尿道が詰まるなど、聞いたこともないし、想像もできない。
「コーヒーくらいで」
 それに、そんな忠告をしたところで、陶子には正博が聞き耳を持つとは思えなかった。
「まあ、これが原因だったとしても…」
 正博は、手に持っているコーヒーカップを揺らした。
「好きな物諦めてまで、長生きしようとは思わんね」

─そう言うと思ってたけど。
 杏奈は、一人実家に残って仕事をしている途中、椅子の背もたれにもたれかかって、はあ…とため息をついた。
─好きな物諦めてまで、長生きしようとは思わんでね。
 古谷家の人々は、基本的にそういうスタンスだ。だから、杏奈はこの家の中であまり、アーユルヴェーダのことを口にしない。この家で、原因と結果の法則を強調したとて、余計なお世話だと思われるのが目に見えている。
「うーん…」
 昨日、前立腺の問題について調べまくったものの、無意味に終わってしまいそうだ。
 杏奈はエンストしていた。ただでさえ、今している仕事は、かなり集中力を要する。しばらく作業をしていると、頭が回らなくなる。そこに昨夜、追加で難しい調べものをし、夜更かししてしまった。
─ん?
 車の音がして、杏奈は窓から外の様子を眺めた。裕太たちの家の前に、白いプロボックスが停まった。おそらく、営業車だ。
 今、家の中にはこはると陽斗しかいないはず。
─どうして営業車が…?
 もしかして…と、一つの予測が立った。しかし、杏奈は真相を確かめに行くことはせず、ソファの上で少しの間仰向けになった。それからyoutubeをつけて少しヨガをし、それからまた、仕事に戻る。
 杏奈の集中力がもう一度切れたのは、十二時を回る少し前だった。裕太宅の前には、まだ営業車が停まっている。
─やめとこう。
 顔を出しても、向こうがいい迷惑だろう。と、杏奈が遠慮していたら、十二時を過ぎて、誰かが玄関のカギを開けて入って来た。仕事に行ったはずの裕太だった。
「食べるもんある?」
 裕太は冷蔵庫に直行した。杏奈が実家に残っていることは知っていたはずだが、全く気にかけていない様子。
「お兄ちゃん、社用車で帰ってきてたの?」
「あ、うん」
 裕太は後ろめたそうな様子もなく、冷蔵庫から昨日の残りのハンバーグを取り出した。
「杏奈、昨日のハンバーグ食べる?」
「え?あ、ううん。お兄ちゃんたち食べるんなら、いいよ。納豆とかあるし」
「あ、納豆もあるのか」
 裕太はもう一度冷蔵庫を空けて中を覗いた。
「ごはん食べてくの?」
「うん。お前、半分食べな。母さん杏奈のために残しといたんだろうから」
「いいよ。こはるさんと二人で食べて」
「カップラーメンもあるから。ちょっと足しになるものがないか探しに来ただけ」
「そっか…」
「もう電子レンジかけていい?」
「うん」
 ハンバーグを電子レンジにかけている間、裕太はキッチンからダイニングにいる杏奈を見やった。
「えらいねぇ。家にいてもちゃんと仕事してるのか」
「仕事というか、勉強というか」
「へえ、相変わらず好きだねぇ」
 別に嫌味とも聞こえない調子で、裕太は言った。
 杏奈は、自分もキッチンに回りながら、それとなく尋ねた。
「お兄ちゃん、家に帰ってきて何してたの?仕事はいいの?」
「営業の外回りって、結構空白の時間あるから。昼休憩と合わせて、ちょっと寄ったの」
「ふーん…」
「…母さんたちには、内緒ね」
 外回り中に家に寄っていたことを黙っておいてくれ、ということかと思っていたら、
「おれ、今日面接受けてたんだ」
「面接?なんの?」
 思いがけず、裕太の方から暴露してきた。
「仕事の」
「転職するの?」
「受かったらね」
 裕太曰く、今の仕事内容とほとんど変わらない職種で、より好待遇の募集を見つけたらしい。こはると話して、ダメ元で面接だけ受けてみたらという話になったそうだ。
「同じような職種なのに、いいの?」
「給料がいいのさ」
 それって、大事なことじゃん?と言わんばかりだった。
 杏奈は、みそ汁の鍋に火を入れる。
「杏奈は、どっちかっていうと、仕事の内容を重視するじゃん」
 裕太は、話しながら何かを探していた。大方お盆だろうと思って差し出すと、裕太は調理台の上にそれを置き、食器棚からお茶碗を出した。
「でもおれは、自分の手に負えれば、内容はそこまで大事じゃないのよ。人間関係がよくて、ちゃんと休みが取れて、給料が良ければ」
 裕太は炊飯器の蓋を開け、お茶碗にごはんを盛った。
「そうすれば、プライベートで楽しいこともいっぱいできるじゃん」
 裕太は昔から、勉強とか習い事とか、何かに集中しているよりも、人と一緒に何か楽しいことをしたいというタイプだった。杏奈は、その逆のタイプ。兄妹だけど、似ていなかった。
「そっか。受かるといいね」
 杏奈は裕太からしゃもじを受け取った。
 自分がどのように社会に貢献できるか…裕太は、そういうことをあまり真面目に考えない性質だ。それでも、その時置かれた環境に溶け込んで、結果的に社会を支える一人になる。裕太は、どこにいてもなんだかんだ、うまくやるだろう。
 そんな裕太が、杏奈には羨ましくもあった。同時に、そういう生き方は、自分にはできないだろうと思った。

 

 


 

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