「美津子さん」
居間で本を読んでいたら、ひょっこり応接間から現れた杏奈に呼びかけられた。
「掃除マニュアルできました。共有フォルダに格納しておいたので、あとで見てください」
「分かったわ」
杏奈はそれだけお願いすると、玄関から外へ出て行った。
─早いな。
美津子はぱたりと本を閉じた。
今までよりも貪欲に、杏奈はあかつきに影響を与えようとするようになった。今分かる範囲で、あかつきについて知ったこと、ウリになるようなことをまとめて、ホームページのどこに追記するべきか提案をしてきた。インスタのハイライト機能を、意味あるものにしたい。投稿だけでなく、マメにストーリーを発信したいとも言ってきた。さらに、美津子がしている仕事の中で、自分にできることがあったら手伝いたいと。
─小須賀さんに、何か言われたのか。
あの日、弁当の納品が終わって帰ってきた杏奈は、ひどく落ち込んでいるように見えた。
帰って来た後、小須賀は、残った弁当のごはんとおかずで、杏奈と美津子に先に昼食を食べさせた。杏奈はいつにも増して口数が少なく、キッチンが気になってしょうがないようだった。小須賀が片付けの一切を担ってくれていたのだが、それがかえって心苦しかったのかもしれない。杏奈はなぜ先輩の小須賀が片付けをし、自分が先にご飯を食べさせてもらえたのか分からなかったのだろう。食べるともなしにご飯を食べて、洗ったものを拭く作業は手伝っていた。
美津子は応接間に移動し、パソコンを起動させて、杏奈が格納したマニュアルを見る。いろいろと考えた挙句、捻出した仕事だった。この先、掃除や施術前の準備は、杏奈以外の者がやることも出てくるだろうと思って、マニュアルを作ってほしいと頼んだのだ。
作業の目的、間取り、番号順に書かれた作業手順、ポイント。分かりやすくまとめられている。作業マニュアルとしては、十分だろう。
あかつきの内装に関する紹介文も、よく出来ていた。そのままホームページに掲載しても良いと思うくらい。
投稿以外にも、インスタの運用としてできることをしてくれたのか、ここ数日、フォロワーの増加率が今までより良い。
事務作業の早さと綿密さは、おそらく今までのどのスタッフよりも秀でているのだろう。今までのわずかな成果物からさえ、それがうかがわれる。
美津子は外に出て、杏奈の様子を見に行った。
生垣にしている槙の剪定をお願いしたのだ。傍からそっと様子を見守ると、案の定、杏奈は垣根を切り揃えるのに苦戦していた。
─見ていられないな…
美津子は結局、杏奈に声をかけた。少し手本を見せて、再び杏奈に剪定バサミを渡す。
─得意分野を活かしてやるべきか…
畑仕事、車の運転、こういうちょっとした家の整備などは、苦手らしい。単に経験不足、というだけだが。
美津子は杏奈に、アーユルヴェーダトリートメントを教えるつもりは、まだなかった。本人はセラピストとしても役に立てればと言っていたし、美津子としても、プレイヤーは多いほうがいいと思っている。
しかし、美津子は、セラピストの仕事を覚えさせるよりも、今は大切なことがあると思う。
その日の夕食後。
「家事には慣れた?」
美津子は杏奈に、そう尋ねる。
「炊事は慣れたと思います。物の位置も、だいたい覚えられました」
「そう。じゃあ、次はセラピストのアシスタントとしての動きを覚えてもらうわ」
杏奈は背筋をピンと伸ばし、嬉しそうな顔をした。
「実際は、あかつきのセラピストは、セッティングから施術、片付けまで、すべて一人で行うけれど、一度に全部は覚えられないから、新人の時はまずアシスタントに入るの」
「はい」
「施術を教えるのはもっと後になるけれど、アシスタントの仕事だけでも先に覚えておけば、後々楽になる」
「はい」
「明日、実際の動きを説明する。明後日、クライアントが来るから、さっそく本番よ」
杏奈は胸を膨らませた。新しいことを学ぶことができる。やっと、美津子の仕事を間近で見られる。
しかし、すぐに別のことが気になった。
「美津子さん、じゃあ、料理担当の当日の動きも、明日教えていただけるんですか?」
「料理のことは、小須賀さんに任せてあるの。当日、いろいろと指導してくれるはず」
「…」
「あからさまに嫌な顔をしないの」
杏奈は顔に手を当てた。自分は嫌そうな表情をしたのだろうか、無意識だった。
「クライアントに出す料理は、いつも私がメニューを考えて、小須賀さんにポイント部分だけを伝えて、あとは彼のセンスに任せているの」
杏奈は弁当作りの時を思い出した。確かに、そんな感じがした。
「でも、明後日は杏奈がメニューを考えて」
「はい…え?」
「クライアントに出す料理を考えて」
「…いいんですか」
杏奈は自信なさげに肩をすくめたが、心の中では希望の風船が少し膨らんでいた。小須賀もやっていなかったことを、いきなり、自分にはさせてくれるのだ。
小須賀は、アーユルヴェーダのことを知らないのかもしれない。それは、先日小須賀との会話の中で察した。彼には献立を考えさせないのは、そのためなのか。
「ここ十日、あかつきで採れたものだけを使うことで、否応なしに季節感のある料理になっていた。基本的には、二人で食べていたものと同じように作ればいい」
美津子は、杏奈に食事を作らせながら、杏奈の素の感覚を見ていたようだ。何も指示していない状態で、どんな料理を、どのくらいの量出してくるのか。
そして、今、杏奈が今まで作ったような料理の延長で良いと言われたということは、素の感覚でやっても、だいたいズレはないと言ってくれたようなものである。
希望の風船はさらに膨らんだ。
「けれど、いくつか、クライアントに出す食の指針があるから、それは考慮に入れてもらわなくてはならないの」
杏奈は急いで書斎の机に置いてきたパソコンを取りに行った。メモをするために。
─美津子さんの考える、アーユルヴェーダ料理の要素を教えてくれるってことだ。
となれば、至極重要な情報である。
美津子は箇条書きにした内容を読み上げるように、すらすらと説明した。クライアントには出さない具体的な食材、適切でない食べ物の組み合わせ、積極的に使いたい食材、どういう観点でバランスを考えるか、料理について大切な他の事項。
杏奈は、これまでいくつかの料理教室で、アーユルヴェーダの料理を学んだ。アーユルヴェーダの本は、日本人、外人問わず、読めるものから手あたり次第に読み、中にはアーユルヴェーダ料理のレシピを紹介しているものもあった。そこで得たアーユルヴェーダ料理の印象は、ヘルシーという点ではどの人のレシピも共通。しかし、人によって随分可変性がある、というのも、大きな印象だった。
ある人はこの食材は使わないと言い、ある人はこの食材は使うと言う。ある人は特定の調理法で作った料理をメニューに加えるし、ある人はそうでない。それは結局、アーユルヴェーダの料理とは、極めて個人的なもの(オーダーメイド)であることを示している。最も健康的な料理とは、食べる人の体質や、その時の乱れによって異なるからだ。
しかし、それだけではない。マーケティング的な事情もあるだろう。たとえば、ベジタリアン料理の需要が高まっていれば、ベジタリアンのアーユルヴェーダ料理を伝える。受け手にとって現実可能な範囲に、ハードルを下げている場合もある。たとえば、アーユルヴェーダは出来立てを食べるべきと教えている。しかし、これだけ忙しい現代で社会生活を送っている者にとって、それはたびたび現実的ではない。だから、アーユルヴェーダの作り置きレシピなどといったものが人気を博すこともある。
美津子が述べたあかつきの料理の指針は、しかし、杏奈が知る限りのアーユルヴェーダの推奨事項に、極めて忠実な内容だった。
「クライアントの中には、受け入れがたいと感じる人もいるかもしれないですね」
杏奈の感想を聞いても、美津子は大して問題ではないとばかり、涼しい顔をしている。
「でもあかつきにいる間は、それを食べる他ないわ」
「…」
「理想を崩すことは、いつでも簡単にできる。だからこそ、あかつきは立ち戻るべきものを示さなければ」
美津子は悠然と言った。
「あかつきに滞在している時の体の感じ、心の状態に変化を感じられたら、日常に戻っても、あかつきの食事の要素を活かしてくれるかもしれないでしょ」
杏奈は感銘を受けた。クライアントの不評を買っても、目先の快楽ではなく、真の癒しを得てもらうために、信念を曲げない。
一方、生徒の顔色しだいで、料理教室のメニューをころころ変えていた頃の自分を、恥じるような心地になった。
「それに、あかつきの料理を、確実に気に入ってくれる人もいる」
あかつきには、自分の心と体を健康に保ち、健康を増進したいと願うクライアントが来るのだから、健康的な食事なら概して喜ばれる。
「現に、ここ十日間、食事についてそんなに苦しい思いをした?」
と尋ねられて、杏奈は美津子の計らいに気が付いて「あ…」と声が出た。
「いいえ」
杏奈は目の前の穏やかな先達に答えた。
美津子が先ほど、クライアントに提供する食事からは除きたいと言った食材は、畑で作っていなかったし、ほとんど買っても来なかった。畑で採れたばかりの野菜にはプラーナ(生命力)があり、だいたいの場合、出来立てを食べていた。効率良く作ることを求められたから、素材の味を活かした、シンプルな調理法のものばかり。知らないうちに、美津子に誘導され、あかつきで提供するべき料理の要素を、杏奈自身が作り、食べていたのだ。
そういえば、最近では、甘い物を欲することが少なくなった。甘い物を食べたくなっても、そもそもあかつきには間食に食べるような甘い物がないので、習慣的に食べなくなった。体が間食として甘い物を食べないことに慣れたのだ。
これらにより、変化を感じている。お腹が張ることは少なくなったし、体も重くない。午後、眠くなるようなこともない。
─どこまで思慮深い人なのだろう。
すること、言うことすべてに意図があるかのよう。
「あかつきの食の方針は、このように決めてはいるのだけど」
美津子は片方の手で首筋を撫でながら、嘲笑じみた笑いを浮かべた。
「私は時々、何々は推奨できないとか、今は食べない方がいいとか、誰々には合っていないということが、あまり好きではなくてね」
「分かります。余計なお世話というか、お説教っぽく捉えられがちですものね」
美津子は少し目を細めて微笑を作った。
「新しい課題を出すわ」
身を前に乗り出して、話題を次に移す。
「課題…」
「そう。もう、畑で採れたもの縛りは慣れたでしょう。次に進めるんじゃないかしら」
「はい」
「五大元素とは何か、説明してみて」
五大元素とは、アーユルヴェーダの基本概念。基礎中の基礎である。アーユルヴェーダを人に伝えてきた杏奈としては今更のような、突拍子もない問いだった。
「五大元素とは…」
杏奈は戸惑いながらも、
「アーユルヴェーダの基礎的な概念の一つです。あらゆるもの、自然界や私たちが共通してもっている、万物を構成する原因因子です。五つの要素は、空、風、火、水、地」
普段の何気ない言葉のキャッチボールよりも、素早くボールを返す。美津子は心の中で苦笑した。
「文章問題の答えとしては、正解よ」
五大元素は、サンスクリット語でパンチャマハブータと呼ばれる。これらは、三つのマハグナ─サットヴァ、ラジャス、タマス─がユニークに組み合わさって生まれ、人間を含む自然界の全てを構成する。五行の概念はアーユルヴェーダの中核をなすものであり、自分自身と周囲の世界を理解するための基礎となるものだ。
五大元素は次の五つである。
・空(Akashu:アカーシュ):サットヴァから生まれる。
・風(Vayu:ヴァーユ) :サットヴァとラジャスから生まれる。
・火(Tejas:テージャス) :ラジャスから生まれる。
・水(Jara:ジャラ) :ラジャスとタマスから生まれる。
・地(Pritivi:プリティヴィ):タマスから生まれる。
この概念は、自然界や身体の中で起こっていること、個人(内部)が全体(外部)とどのように結びついているかを、単純に、直観的に説明するために使用される。
あらゆる物質の中に、五つの要素がある。一人ひとりに五つの要素がある。人はあらゆる物質の五大元素から影響を受け、逆もまた然りなのだ。
「あなたの聡明さは、あなたの過去の発信や、今回の提出物を読めばわかった」
いきなり褒められた。小須賀に批判─しかし正論─されたばかりの杏奈は、褒められる耐性はできておらず、どういう表情をしたら良いやらと戸惑うばかり。
「でも」
戸惑うのも一瞬。すぐに逆説が続いた。
「頭で分かっているということと、経験しているということは違う」
流れるように言葉が降り注がれる。
「経験したことしか、人には話せない。あなたは知識としてのアーユルヴェーダは頭に入っているけれど、もっと感じることが必要だと、自分でも分かっているのではないかしら」
教科書を読み上げているだけで、自分の言葉では話せていない、自分の経験として落とし込めていない。美津子に痛いところを突かれて、しかし、杏奈は否定できなかった。
「これからしばらくの間」
沈黙を肯定と受け取ったのか、そのまま美津子は続ける。
「身の周りの五大元素を探して。五大元素を感じ、自分の持っている元素が、どのように影響を受け、影響を与えているのか、内外両方のベクトルで感じること」
それが新しい課題。
言葉の意味は理解できるが、五大元素という概念を、実生活の中に当てはめて考えるというのは、ひどく難解に思える。
「それは、例えば空間の中で手を伸ばして、空間を感じる、といったようなことでも良いのでしょうか」
「なんでもいい」
美津子は悠然と言った。
「できるだけ多くを感じて」
午前九時。クライアントは時刻に遅れることなくあかつきに到着した。美津子と杏奈は、玄関でクライアントを迎える。
「優香さん、どうぞ。お待ちしておりました」
美津子はこの日、あかつきのセラピストの正装─花菱模様があしらわれた白地の上衣、同じ色の下衣という二部式着物に、長い前掛け、それを留める長い帯─を着ていた。
美津子の後ろに控える杏奈は、白いブラウスと、黒いスキニーパンツという恰好で出迎える。セラピスト以外には決まった制服がなく、美津子と話し合って、無難なこの服装にした。
「よろしくお願いします」
この日訪れたクライアント・優香は、玄関先で礼儀正しく挨拶をした。杏奈があかつきに来てから、初めての滞在客であった。
背は美津子と同じくらい。平均的な体格で、肩の下まで伸びる黒髪は、微妙にウェーブがかかっている。顔のパーツは割と整っているが、美人というほどではない。けれど女性らしい雰囲気をもっていて、人当たりの良さそうな印象だ。
優香の荷物を杏奈に任せ、美津子は優香を書斎へ案内し、ソファをすすめる。自分もその向かいに座った。道中のことなど雑談をしている間、杏奈が教えたとおりにお茶を運んでくる。ピンクティーと呼んでいるそのお茶は、カリンガリ(karingali)、スオウ(sappan wood)、サリバ(Sariva)などのハーブをミックスしたお茶で、血液を浄化し、体をクーリングし、消化を促進する作用がある。お茶と同系色の花柄があしらわれた、マイセンの華奢なティーカップに入ったピンクティーは、優香にだけ提供された。
お茶を出すと、杏奈は居間に移り、書斎からの話し声が聞こえる位置に座った。美津子は事前に提出された問診票に基づいて、優香と会話をしている。新規顧客で、もちろん個人的なつながりもない女性だが、そうとは思えないくらい、美津子は優香のことをよく把握している。
「二泊三日、家を空けても、お嬢さまたちは大丈夫ですか?」
「はい。もう大きいので」
「お二人とも、大学生ですよね」
「ええ。なので家にいることもほとんどないし、もともと、夕ご飯の準備は交代制なんです」
「それは助かりますね」
問診票、というのをまだ杏奈は見せてもらったことがなかった。
あかつきへ滞在する前に、美津子とクライアントはオンラインにて、健康に関するアーユルヴェーダコンサルテーション(事前コンサルと呼んでいる)を行う。土壇場で予約が入った場合を除き、このコンサルは行われ、あかつきに来るまでの間に、体のコンディションを整えるためにできることをしてもらうのだという。
─身体が浄化されていればされているほど、トリートメントの効果は得やすい。
と、以前美津子は杏奈に教えた。
「さっそくですが、優香さん」
「はい」
「お酒はどのくらい控えられましたか?」
雑談を一区切りするや否や、単刀直入に切り込んだ。優香は、悪戯を咎められた少女のようなごまかし笑いをした。
「お酒は…ええと…減らせてない、ですね」
美津子は、優香との最初のコンサルの後、あかつきに来るまで、今後一か月の推奨事項を連絡した。最も重要な提案事項は、優香が週に三回摂取しているアルコールをやめるか、頻度、あるいは量を減らすことだった。
「量はどうですか」
「量も、ほとんど減らせていなかったです。けれど、つまみを食べない日を作りました」
「そうすると、その時は飲む量は減りましたか」
「いいえ…ただ、飲みたいと思うお酒が変わりました」
「どのように?」
「サワー系やウイスキーだったのが、赤ワインとか、甘味をもつものがほしくなって…」
優香は笑ってごまかしている。美津子は口元にわずかに微笑を浮かべていた。厳しい印象を与えないためであった。
「私がお酒を減らした方が良いと言ったのは」
あくまで柔らかい口調で、美津子は説明をする。
「アルコール、それも遅い時間のアルコールの摂取は、優香さんの消化力に大きな負担をかけるからです。解毒がスムーズに行われなければ、ちょっとした不調に表れてきます」
優香には、すでに膨満感やガス、湿疹といった症状が出ている。
「はい」
優香はしおらしく、美津子の話を頷きながら聞いている。
アルコールを夜遅い時間に飲む場合は、消化器系は日に何度も働くことになり、それだけ負担がかかる。このことが睡眠の質を下げ、疲労感やエネルギーレベルの低下にもつながっている。だが、美津子はみなまで言わなかった。
「むくみや体重の増加にお困りでしたね」
「ええ」
「おつまみを減らした時もあったようですが、塩気や油気のあるおつまみは、もちろんむくみや体重管理のために良くありません。でも、適切な食習慣が身につけば、自然と代謝が強まり、体重も適正に戻ることが期待できますよ」
「減らしたいですねぇ」
優香は困ったような笑いを浮かべて言った。
「年を取ったからか代謝が落ちて、ちょっと食べただけでも身体が重く感じちゃうんです」
けれど、それでいてお酒はやめられないんですけどね…と優香は付け加えた。
─アルコール中毒者…のようには見えないけれど。
杏奈は居間で話を聞きながら、それでも、優香の課題はアルコール依存からの脱却なのではないかと想像した。美津子はクライアントに酒を控えるよう推奨していたようだが、実践具合は芳しくない。もっとも、美津子はうろたえてはいなかった。クライアントが言われたことを実践しないのは、珍しいことではない。
「どのような時にアルコールを欲しますか?」
美津子は質問を続ける。
「飲酒するタイミングは、決まっていましたね。週末、土日と、平日一回。衝動で飲むというより、決まったルーチンなのでしょうか」
「あ、土日は、そうです」
優香はもじもじと少し体を揺り動かした。
「主人との時間を共有する手段なんです。普段主人とはあまりしゃべらないんですが、このお酒を飲んでテレビを見るっていう時間だけは、一緒に」
「そうでしたね。この習慣ができて、どのくらいになるのですか?」
「下の子が中学を卒業したくらいからなので…四年くらい前から、ですね。平日は、水曜日にフレックスで早く上がれるので、飲みに行ってしまうことが多いです」
「なるほど…」
二人はそれからしばらく、どんなテレビを見るのか、会社の周りの環境はどんな感じかなど、少し横道に逸れたことを話していたが、
「お酒をやめる必要性は感じていらっしゃいますか?」
美津子はさりげなく本題に戻った。
「はい。やめたいと思っています」
「なぜそう思いますか?」
「やっぱり、冷たいビールとかチューハイとかを飲むからなのか、お腹が冷えて、重たい感じがするし、体の冷えにもつながってるかなって。未病の観点からしても、やめなきゃな~とは思ってます」
美津子は頷き、
「ここにいる間は、お酒を飲まないと思うので、その間どんな感覚があるか意識を向けてみてくださいね」
と穏やかに言った。
あかつきにいる間は、酒を飲みたくとも、手が届く範囲に酒がないから飲めない。こういった状況を作るまで、優香一人の意志ではやめられなかった。
たとえば優香のように、普段はアルコールをやめられないクライアントでも、あかつきに滞在している間はやめられることが多い。この違いを生み出すのは、他者の管理に置かれているかどうか、それができる環境にあるか、だ。あかつきに滞在している間の様子を見ることで、優香もまた、環境が変わればやめ得る人なのか、観察する機会はできるだろう。
「一か月の間に、結果を出せなくてすみません」
優香は謝った。しかし、美津子は微笑を浮かべて、それには答えない。
「もう一つ話題に挙げていた、朝と夜の食事のバランスのことですが」
「はい」
「炭水化物は、摂るようになさったのですか」
「それが」
優香は両手を合わせて、口と鼻を覆うようにしてみせる。
「恐くて摂れないんです」
「穀物を食べて、太るのが恐い、ということですか?」
「はい…実は一度、主人との晩酌を控えようとしたことがあるんです」
「ええ」
「おつまみも自分は食べないで、友達からもらったドライフルーツ入りのハーブティーだけで過ごそうと…けれど、お酒を飲まないっていう頭でそこにいると、今度は、甘い物とか、ごはんとかが食べたくなってくるんです」
「晩酌の時は、夕ご飯は軽めに済ましているのでしたね?」
「はい。軽めに食べるとしても、穀物は食べません。何も食べず、お酒を夕ご飯代わりにすることもあります」
「お酒をやめようとしたその日は、夕ご飯は食べてたのですか?」
「はい。確か、野菜とか、肉の煮物とかを。でも、やっぱり穀物は食べませんでした」
「そうですか」
壁越しに聞いている杏奈は、極端だけれど、糖質制限をしている人によくありそうな話だなと思った。お酒自体にたっぷり糖質は入っているはずなのだけれど…。
「あれなんですよね」
優香は、弁明するように言った。
「やめようと思っていても、主人がお酒飲むときに、飲まないの?と言われると、じゃあ…となってしまって。結局、その日は飲んじゃいました」
美津子はどんな顔で聞いているのだろう。まさか呆れた顔はしてはいまいが。杏奈は立ち聞きは許してもらえたものの、表情が見られないのが残念だった。
実際、美津子は、ほとんど表情を変えずに聞いている。自分の感情はどこかに追い出しているようだ。
「穀物には適度な甘味があって、心と体に満足をもたらします。できれば食べてほしいですね」
「はい」
優香はまた、急にしおらしくなる。
「でないと、必ずどこかで甘味を欲します。優香さんは便秘になりがちでしたね。穀物は適切な排便のためにも必要です」
優香は納得したのか、していないのか、何とも言えない唸り声を出す。
「アルコールをやめた時、体は甘味を欲します。その時どのような甘味を、どのくらいの量摂るかは、気を付けていなければなりませんね」
「ですよね。私、ご飯とか食べ始めちゃったら、きっとたくさん食べてしまう」
「悩みが入れ替わるだけです。アルコールをやめられなくて悩んでいたのが、ご飯を食べすぎて困る、という悩みにシフトするのです。けれど、これを後退と考えるべきではありません。それなら今度は、ごはんを食べすぎないようにどうすればいいか考えればいいんですよ」
「うーん、難しいですよねえ」
「ご自身にとっての適量を知るポイントは」
美津子は両手の平を上にして、小指同士をくっつけ、見えない何かを下から掲げるような形にした。
「両手を合わせた時に、軽く盛れるくらいの量が、その人にとっての適量です」
「そうなんですね」
「ええ。これを指標としてください。もう一つは、食べている時に、小さなげっぷが出ることがあります」
「えっ、今まで気にしたことない…」
優香は身に覚えがないと言うように、首を傾げた。
「では、意識してみてください。そして、小さなげっぷに気づいたら、食べるのをやめます」
杏奈にとっては、何一つ目新しいアドバイスはなかった。
杏奈は酒を飲まないので、酒を止めるのに苦労する人の気持ちは分からない。しかし健康のためのコンサルテーションをする側になったら、そういう未知の悩みにも、想像を膨らませて対応しなければならないのか。
「そうだ、この間は聞き忘れてしまったんですが、運動の習慣について教えてもらえますか?」
「運動は…通勤の、バス停までの行き帰りだけですね」
「それと、ヨガですね」
「はい。夜、十分くらい、ストレッチみたいなものですけど」
「分かりました。進捗確認はこれくらいに」
でないと、施術の時間がなくなる。
「ここまでで、ご質問はありますか?」
美津子は、優香の質問にいくつか答えた。
それから、あかつきでの過ごし方について説明をする。滞在中は、アーユルヴェーダの理想的な過ごし方─ディナチャリヤ─に沿って、規則正しい生活を送ってもらう。食事の時間もなるべく一定にするが、外出は自由にしてもらって構わない。途中、外を散策したり、体を動かせるようなアクティヴィティーを入れていく。
そして、施術の内容。
「優香さんはアーユルヴェーダのトリートメントは初めてでしたね」
「はい」
「一日目の施術は、アビヤンガという、全身へのオイル塗布を行います」
美津子は、使うオイルの説明などを始める。話しながら、杏奈が移動する気配と音を感じた。
杏奈はオイルの説明の前まで聞くと、そっと立ち上がり、応接間の方からホールに出て、二階へ向かった。二階の施術室で、ベッドのヒートマットの電源を入れ、オイルを湯煎する保温器のスイッチも入れた。
これからここで行われるアーユルヴェーダの施術。どんな内容か興味深い。いつか、自分もここで、クライアントに施術をする日がくるだろうか。
杏奈は両手で指を組み、さすった。まだ完全に滑らかにはなっていない指。それでも、何かを外に追い出そうとするような熱は、今はその指からは発せられていなかった。
─火の要素が強かった、ということか。
杏奈は思う。長らく、手湿疹に悩まされていた。全身に、湿疹が広がったこともある。
杏奈はもともとの性質としては、あまり火の性質があるタイプではなかった。体は冷えやすく、消化力も弱い。けれど、その体質を超えて、火の要素が強くなっていた。
ヒートマットはまだそれほど温まっていない。もう少しすれば、じんわり汗をかくくらいの温かさになるだろう。
─これも、火だ。
自分の身の回りにある五大元素を探すこと。
あのクライアントにはどの要素があるだろう。杏奈は先ほどの会話から想像する。
それから十五分ほどの後。
美津子は優香を待っている間、事前準備が適切にされているか確認した。まず、温度。エアコンは二十七度、「しずか」モードになっている。湿度は五十パーセント。ヒートマットの温度は四十度。オイルは温まっている。スピーカーからは、明るすぎず、静かすぎない、ピアノの旋律。東の窓の内障子は左右に開かれ、窓の外で緑が揺れるのが見える。
ぬかりはない。
優香が着替え終わる頃、客間の外から、そっと声をかけた。
優香は施術用の下着の上に、サロンを巻きつけた姿で施術室に入る。サロンは、丈の長い巻きスカートのようなもので、施術の直前まで、クライアントはこれを身にまとう。しかしそのサロンは、すぐに必要なくなる。
まず体重計に乗ってもらい、次にベッドに案内し、施術が始まる。
初めの施術は、ほとんどの場合、アビヤンガ(オイルの塗布)から始まる。あかつきの基本のアビヤンガは、全身、顔、頭まで、全身にオイルを塗布するというもの。その後ヒートマットに体を包み、汗をかくことで老廃物の排出を促す。アビヤンガは、パンチャカルマと呼ばれる五つの治療法の前処置としても行われる。本処置に入る前の準備として。
大きなバスタオルで施術をしない部分を覆い、まず左脚にアプローチする。
「浄化のオイルを塗っていきます」
「はい」
美津子の声掛けに、優香は律儀に返事をした。
オイルはいくつか種類がある。クライアントの体質や、目的、部位に合わせて、オイルを変える。
温めたオイルをすばやく手に取り、流れるようなストロークで、膝から鼠径部、膝、踝から膝まで…次々にオイルを塗布する。
和の空間で、独特の和装姿の美津子が、インドやスリランカで古代から受け継がれてきた伝統医療のトリートメントを行う。
異質な絵だった。
美津子は背中をまっすぐに伸ばし、股関節から前傾して、常に施術部位が臍の前に来るように体を移動させる。広い範囲を素早く塗る。指先をセンサーのように使い、凝り固まっているところには丹念にアプローチするが、決して押さない。
優香はむくみが気になると言っていた。確かに膝より下がむくんでいる。サイド圧をかけて、テンポよくストロークする。
アビヤンガ自体も、それを行う前のクライアントの体に老廃物の蓄積がないほど、うまくいく。体の深層深部にオイルが行きわたることにより、栄養が与えられ、新陳代謝が活発になり、細胞の生まれ変わりが促進される。事前コンサルのねらいは、あかつき滞在前に、老廃物をできるだけ溜めないでもらうためなのだが。
足先までオイルを塗布すると、足元から優香の脚全体を見て、脚全体に大きくストロークをかけながら、脚を正しい位置に整えるよう意識する。
─望む者には変化を与えたい。けれど…
左脚を終えた。美津子は左脚をタオルで覆い、右脚に同じことを行うため、オイルの乗ったワゴンごと右側に移動した。
九十分の施術のうち、半分が終わろうとする頃。重役出勤をした小須賀に、杏奈は昼食の準備を教えてもらうところだった。
「おれは昼食だけじゃなく、同時進行で、夜、朝の料理まで仕込んでおくの。できる時は、昼食の仕込みまでやることもあるし」
調理台を挟んで杏奈と向き合いつつ、小須賀は説明する。
「でも、古谷さんはいつでもキッチンに来られるわけだから、都度用意すればいいんじゃない。クライアントが食べる直前にできてさえいればいいから。むしろ、出来立ての方がおいしいしね」
小須賀とは、いかにもきまずいドライブをしたばかりだ。しかし、小須賀はその時の雰囲気を引きずることなく、今日もどこか飄々としている。
「今日なんか一人分の食事を出すだけだから、そう難しいことはないよ。十二時になったらベルを鳴らす。クライアントが降りてきたら席に案内する。料理を提供する。お皿が空になってしばらくしたら、回収する」
小須賀は説明するうちに、ばかばかしくなった。至って変わったことはない。
「料理を作るのはおれの仕事だけど、他は誰がやるとか決まってない。美津子さんが料理を持って行ったり、皿を下げたりすることもある」
「そうなんですね」
「うん。でも、古谷さんは料理を見て、アーユルヴェーダのうんちく語れるんでしょ」
小ばかにしたような言い方だった。
「クライアントの様子を見て、知りたそうにしている人にはそういうの語ってあげたら。たぶん、美津子さんもそういうの望んでるはずだし」
まさに今思いついたことだが、あながち間違っていないと、小須賀は思う。
「あれ、今日のメニュー表…」
調理台にさりげなく置いておいたメニュー表を、おもむろに見て、
「これ、杏奈が作ったの?」
それに気が付いたのは、いつもと字や説明の細かさが異なるためか。
「はい」
「ふうん…て、じゃあおれなんのために来たの?」
小須賀ははっと顔を上げて、呆然とした。
「メニュー考えた人が作ったほうがいいじゃん。食事の出し方も今説明したし…」
それとて、ラインで連絡すれば足りるくらいの内容だ。
「おれ、帰るわ」
「待ってください」
なぜそういうことになるのだろう。杏奈は調理台に両手を着いた。
「いきなり一人でやるのは、無理です。間違ったことをしていたら教えていただかないと…」
「じゃあおれは監督していればいいってことね」
小須賀はキッチンの隅に置いてある折り畳み椅子を業務用の冷蔵庫の前あたりで開き、どかっと腰かけた。
「一発合格してね」
杏奈が一人でできるのであれば、小須賀はこれから、バイトに来なくて良いことになる。小須賀はそれを望むのだろうか。
「あ、クライアント一人の分だけ作るのもあれだし、自分たちの分も含めて、多めに作るといいよ」
小須賀はスマホの画面に視線を落としながら、
「前は、複数のクライアントが同時に滞在することもよくあったんだけど、やっぱりちょっと多めに作ってたな。セラピストの分も考えて」
と、昔を振り返った。
「そうでしたか」
「あと、美津子さんだな。あの人、食べるものがないと、わざわざ自分で作ったりしないから、食べるようにこっちから声かけるようにしてた」
小須賀はさりげなく気を回せる人らしい。
美津子は、最近では杏奈と規則正しく食事をしていたが、忙しいと食事を後回しにしてしまう性質なのか。
杏奈はボウルを持って、お勝手口から外に出た。
夏至は過ぎた。今日は風が少なく、梅雨の真っただ中らしい重苦しい曇天だった。
─雨が降るかもしれない。
降ってくる前に、庭の生垣の隅に群生しているゴツコラを摘みに来たのだった。さといもの葉っぱを縮小したような見た目のハーブ。セリ科の植物で、味はいかにも体に良さそうな苦味と渋味。
─五大元素。
杏奈は、気が付いた時にこの言葉を思い浮かべる。
そして、胸いっぱいにすぅっと息を吸う。
どんなに曇りでも気温の高い夏は、火の要素が自然界で優勢になっている。でも今日は、それに加えて、この重苦しい湿気。自然界に水の要素も増えている。ミストの中を歩いて、水を吸った服をずっと着ているかのような日には、体が重くなり、心もどんよりする。大地が水に濡らされ、土のにおいもする。ピーカンの時には土は乾燥し、さらさらと軽いが、今日のような日は、土が湿り、重く固まっている。風はないから、風の要素は少ない。では空はどうだろう。空は空間のことであり、物が動くスペースのことである。見えないけれど、大気の中に水の要素が増えれば、単純に、空の中を動く物質の動きは鈍くなる。
─五大元素を感じ、自分の持っている元素が、どのように影響を受け、影響を与えているのか、内外両方のベクトルで感じること。
課題の前半─外から内のベクトル─は分かりやすかった。
たとえば、夏は外側に火の要素が優勢になる。外側というのは具体的に、気温が高いこと、日射しが強いことである。これが自分という内側に影響を与える。単純に暑いと感じ、熱がこもりやすくなる。肝臓を含む消化管の機能が低下し、毒素の排出がうまくいかないのか、血液の循環が良くなるからなのか、痒みがあるところがさらに痒くなることがある。
火は物を燃やし、別の物質に変える。内側では、変化の欲求が起き、物理的な動きや思考の激しさとなって現れる。日照時間の長さが、人や動物の活発な活動に影響を与える。
しかし、その逆のベクトル─内から外へのベクトル─いうなれば、自分が世界に与える影響については、あまり考えたことがない。いかに杏奈の消化の火が強かったり、目標に向かう熱意を燃やしていたとしても、自然に影響を与えることはない。
─私が、他の人に対して与える影響、と考えれば良いのかな。
ゆっくり歩きながら、それを考える。
─私が今持ってる五大元素は、何か…。
お勝手口を開けてキッチンに入ると、小須賀は相変わらずスマホを触っていた。
杏奈はゴツコラを軽く洗って、ざるに上げておく。
「ところで、お客さん美人だった?」
小須賀に聞かれて、杏奈は優香の顔を思い出そうとした。年齢相応に、皺があった気がする。けれども一つ一つの顔のパーツは、整っていた。
「まあ…」
普通、と言いかけて、杏奈は口をつぐんだ。自分を棚に上げて、なんだか嫌なやつになってしまうのではないか。
はっきりしない杏奈の答えに、小須賀はそれ以上追求しようとしなかった。
「それで、クライアントの問診の結果、料理をこういう風に変えろっていうような指示、美津子さんから受けた?」
「いいえ。でも…」
杏奈は問診の内容を思い出す。お酒の話。穀類を避けているという話。運動の話…。話題は主にこの三つだった。
「もともと、わずかにピッタが優勢なピッタヴァータの人と聞いていました。お酒をよく飲む方なので、ピッタが乱れているのかもしれないです。でもカパっぽい不調も見受けられました…たぶん、食事はタマス的でないものがいいんじゃないかと」
小須賀はいかがわしそうな顔をした。批判的な、というよりも、アーユルヴェーダの概念を使った話がよく分からない、という顔だった。
「具体的にどういう料理?」
「新鮮な料理です」
「いつもと変わらないじゃん」
「ええ」
しかし、スパイスは使った方がいいと思う。スパイスは、だいたいが熱性で、軽く、乾燥させる。優香はむくみと体重を減らしたがっていた。しかし、それではピッタのエネルギーと拮抗するだろうか。スパイスを使うとしても、ピッタを憎悪させないものが良い。
それに、今日の気候。重く、湿度が高く、鈍さのある気候だから、スパイスの軽さ、乾燥性、鋭さが役に立つだろう。微量のスパイスが即効で効くわけではないが、適度にあったほうがいい。
「ちなみに、酒飲みには、ピッタのことを考えた料理がおすすめなの?」
「うーん」
杏奈は、首を傾げた。
「あまり彼女のことを知らないので、単純にそうだとは言えないですが、概ねそうかと…」
アルコールの毒性を分解するのは肝臓である。肝臓は、ピッタの座。肝臓の過活動はピッタに負担をかける。
「なんだよ。単純にしてよ」
「と言われても、お酒を飲む程度とか、他の要因によっても異なってきますしね」
「そんなにお酒飲む人なんだ」
「週三回くらいって言ってました。一般的に、どうなんでしょう。私はお酒飲まないのですが、小須賀さんは飲みますか?」
「飲むよ」
あっさり答えた。
「頻度は変動するけど、多い時だと週四、五で飲むかな」
そうなんだ、と杏奈は心の中で言った。そんなに飲むような人には見えないのだが。
「別に普通でしょ。その人会社員なんじゃないの?」
「はい。でも、会社の飲み会とかじゃなくて、旦那さんとのリラックスタイムにお酒飲むことが多いらしいです。美津子さんは、あかつきに来る前から、晩酌を控えるよう言っていたみたいなんですけど、優香さん、やめることができなかったんですって」
そういえば、優香は最後に謝っていた。
「優香さん、一か月の間に、結果を出せなくてごめんなさいって言ってたな…」
「ふうん。で、美津子さんはなんて言ってた?」
「え?」
「てめえふざけんなって言った?」
「……」
クライアントを前にそんなこと言えるか。お前が言えよ。杏奈は喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
「でもまあ、そんな責めらんないよね」
先ほどの言葉はどこへやら、小須賀は、今度は優香をフォローするようなことを言う。
「旦那さんとの楽しみな時間…時間というか、楽しむための道具を取り上げるのもさ、無粋っていうか、こっちだって心苦しいじゃん」
「ええ」
それに、美津子には別の負い目もあったのだと思う。クライアントができないと言うなら、クライアントができるような環境や、方法を与えるのがこちらの役目。その方法論を提供してこそ、あかつきにお金を払う価値があるというものだ。それを、あかつきに来る前からできればベストだったのだが、と。
「ところで、何もしないで話してていいの?」
そういう小須賀は、足を組んで、スマホを片手に持ったまま。
「今日の料理は、すごく早くできるんです」
「大した自信じゃん」
「いや、あまり早く作って、新鮮さが薄れるのもいかがなものかと…」
「いかがなものかって」
小須賀は片腹痛そうに苦笑した。
「じじいかよ。もっと若い女の子らしい言葉使ったら?」
若干のジェンダー問題を含む発言。杏奈は少しイラっとした。
「早めに作ったら。そんなに要領よくなさそうだし、やり直し食らう可能性だってあるじゃん」
「はい…」
やっぱり、この男は時々、好戦的な態度を見せてくると思う。
といっても、お米は炊飯器の予約をすでにかけてあるし、ゴツコラサンボル(ゴツコラとココナッツの和え物)は一瞬でできる。ズッキーニは少し調味してローストするだけだ。あとはチャナダルと野菜の煮込み。これも、圧力鍋に材料を入れて、煮るだけ。
小須賀が急に立ち上がって、何かを取りに棚まで行った。戻ってくる時、シンク横の空きスペースに一つの寸胴が置かれているのに気付いて、
「これ、何?」
「え?」
小須賀に聞かれて、杏奈は寸胴に気が付く。
「あっ、出汁です」
「なんであるの?」
「美津子さんと私の食事を作るのに、多めに出汁を取っておいたんです」
「あんた、レストランで働いてたんでしょ?」
杏奈は、作業が一旦停止する。
「こういう高温多湿な時期はさ、出汁とはいえ、気を付けてなきゃだめだって」
「すみません」
「癖つけといたほうがいいよ。ここで、クライアントが食べるものも同様に扱って、食中毒でも起こしたらどうすんの」
「すみません」
「急冷して、早いうちに冷蔵庫に入れときな」
「はい。すみません、うっかりしてて」
杏奈は急いで寸胴を手に持つ。
「あんたも料理人だろ?」
小須賀はスタッフ用冷蔵庫に向かう杏奈の背中に、追い打ちをかけた。
「もっと自分が作ったものに、愛を持ちなよ」
浴びせられた言葉は、意外にも精神論。
「一服してくるわ」
小須賀はさっと踵を返して、お勝手口から外へ出て行った。
いちいち、棘のある言い方をする小須賀だが、今回も、言っていることは間違っていない。
杏奈は冷蔵庫に寸胴をしまいつつ、自分の非を認めていた。それとともに、自分の中にある鈍さ、腰の重さを感じる。
─土か、私は…。
小須賀はどうだろう。こと杏奈にたいしては、トゲトゲした態度と言葉を浴びせる。自分が怒らせているからではあるが、その怒りは、火だ。
そして、料理への愛情。料理人としての熱意と捉えれば、これも、火か。
施術後の片付けを、美津子は杏奈から免除した。なぜなら、食事の準備に集中してもらいたいからだ。初めてのことだし、午後の施術の後にも片付けを行う機会はある。
優香がシャワーを浴びている間、ヒートマットの電源を切り、ワゴンの位置を整え、同じ部屋の襖を開けたところにあるシンクに使った道具を運ぶ。
シャワーの音がしている間は、洗い物をするチャンスだ。アビヤンガの時は、洗い物といっても、オイル、スクラブを入れていた器くらい。洗い物が終わると、ベッド周りの汚れ、特にオイルが落ちた痕を拭き取る。
そこまで終えると、美津子は使い終わったバスタオル持って階段を降りる。そのまままっすぐ、一階の施術室の隣の洗面所へ向かった。
洗濯機は、大きなドラム式と、縦型の二つがある。施術で使うタオルやサロンは全て、ドラム式洗濯機で洗っている。タオルにオイルが付いてしまっている場合は、別で洗う。もう一つの縦型洗濯機は、自分の衣類を洗うのに使っているが、長期滞在するクライアントが使うこともある。
タオルを洗濯機に入れると、まだ回さず、美津子は新しいタオルを持って、施術室に戻る。シャワーの音は止んでいたが、優香はカーテンの裏で、体を拭いている。
優香の準備ができた頃を見計らって、美津子は体組成計のスイッチを押し、カーテンの向こうへ押しやった。常連客の中には、美津子がいても構わずカーテンを開け放って、その場で数値をメモさせてくれる人もいる。今回は初対面だし、奥ゆかしそうな人なので、美津子は優香がメイクルームへ移動してから、さっとメモを取った。
シャワー室と床の掃除、新しいタオルのセッティングまで手早く済ませて、美津子はまた一階に降りる。
「美津子さん、何か手伝いましょうか?」
階段下にいた杏奈が声を掛けてきた。
「上のことは済んだわ。食事の用意は?」
「はい。もうできてます」
話しながら、二人は応接間まで移動した。
「じゃあ、優香さんが降りてきたら、お茶をお願いね」
「はい」
美津子はいつもの位置に座る。杏奈は美津子の前で、何をするでもなく、ふわふわ漂っていた。これは、暇を持て余している時の杏奈の動きなのだ。こんなことなら、片付けをしてもらうのだった。
「カウンセリングを聞いていた?」
施術前の優香との話のことだ。あかつきでは、事前コンサルにおける詳しいヒアリングをコンサルテーション、施術前後の軽い問診をカウンセリングと呼び分けている。杏奈は首を縦に振った。
「優香さんは謝っていたわね」
美津子は、独り言のように言った。
「誰に対して、謝っていたんでしょうね…」
優香は、メイクルームで身支度をととのえた。鏡台の上に準備されている化粧水や乳液を、顔にしっかり塗った。午後も施術があるので、化粧はしない。
ドライヤーで髪を乾かして、ブラッシングを終えると、施術室の向かいにある客間に入った。八畳ほどの和室で、床の間には水色の紫陽花が飾られている。
シャワーを浴び、体を拭いたが、体はしっとりとしていて、今身に着けているサロンまで、しっとりとしている。そのまま畳に座るのは憚られ、部屋の隅に置かれているアンティークな机に向かい、椅子に腰かけた。
全身がぽかぽかと温かい。湿疹が出やすいお腹周りやわき腹に、オイルが染みるかもしれないと思ったが、大丈夫だった。
「ふう」
優香はため息のような吐息を漏らす。
ふと気が付いて、鞄からスマホを出すと、着信が一件、メールが二件入っていた。着信とメールのうち一件は娘から、調味料の在りかを尋ねるもの、もう一件は会社の同僚からだった。どちらにも、短く返信をしてから、優香は椅子の背もたれにもたれかかって、もう一度ため息をつく。
─ふう。
優香は椅子の背もたれに背中を預けながら、美津子の姿を瞼の裏に思い浮かべる。自分よりも年上だろうが、肌に張りがあり、すっきりと細く、理路整然とした話し方をする、賢そうな女性だった。厳格な印象は受けなかったが、酒に呑まれている自分に、呆れているだろうなぁと思う。
いや、呑まれているというほどではない、と優香は自分を慰める。この程度飲んでいる人は、世の中に山ほどいる。
自己流の糖質制限─穀物を食べない─の結果、優香は数キロ痩せることに成功した。この方法は、ある程度理に叶っていると思ったし、目に見えて効果が出たので、信頼している。副作用として─美津子曰く─便秘になりやすいのかもしれないが、便秘は、糖質制限をする前から始まっている。今に始まった話ではない。それなのに、美津子は、穀物を食べた方がいいという。
自分が今まで信用してきた方法、アーユルヴェーダの専門家からのアドバイス…情報が錯綜して混乱する。それに、今まで自分が努力してきたことに対してあれこれ指摘されるのは、あまりいい気がしない。
優香は、ぶるぶるっと頭を振った。
─やめよう。リラックスしに来たのだから。
優香は気を取り直して、もと着ていたトップスと、白いガウチョパンツに着替えた。
美津子はキッチンで、杏奈の料理の味見をしていた。
「豆カレーが、思ったよりおいしいんすよ」
小須賀は、コンロから離れたところの、キッチンの壁を拭き掃除しながら、意外にも美津子の前で褒めてくれた。杏奈はやはり、褒められるのはいかにも慣れない、というためらった表情になり、
「カレー…ではないんですけどね」
と付け足した。
今日のメインは、チャナダルと野菜の煮込みである。チャナダルとは、カラチャナと呼ばれる小さいひよこ豆を、皮を剥いて半分に割ったものだ。ひよこ豆と同じく、旨味のある豆で、皮がない分とろけやすい。杏奈が作った煮込みも、豆が五分ほど煮崩れて、とろみになっている。それでも、歯ごたえを感じるほどには、豆の粒感が残っていた。一緒に煮込んだのは、セロリと人参。
ホールスパイス(粉砕されていない丸のままのスパイス)としては、マスタードシードが目に見えて入っていて、これとは別に、ほのかな清涼感もある。
「ホールスパイスは他に何を入れた?」
「フェンネルです」
「パウダースパイスは?」
「ターメリック、クミン、コリアンダーです。あ、あとフェヌグリークパウダー」
杏奈のアーユルヴェーダ料理は、味が薄いわけではないが、マイルドで、これといった際立った味や風味を感じない。
「そのスパイスを選んだ理由は?」
「ピッタに良いからです。クミンは豆のガスを消すために」
本当はヒングを使いたかったのだが、優香には少し発疹があると聞き、やめておいたのだ。料理に少し使う程度なら、無害であろうが。
「どういう点がピッタに良いの?」
「ターメリックは肝機能を向上させて血を綺麗にします。優香さんはお酒をよく飲まれる方なので…コリアンダーも、解毒作用に優れています。フェヌグリークは、排出作用があって便秘の人にはおすすめで、苦味がピッタやカパに良いです。コレステロール値や血糖値にもいい影響があると聞いたことがあります」
小須賀は、いつしか掃除の手を止めており、呆れたような顔をする。
「古谷さんって、そういう話する時だけは、よどみなく話すよね」
美津子もまったく同感であったが、それは言わないでおく。
「今言ってたこと、あとで優香さんに説明してあげて」
「はい」
美津子はキッチンを出る前に、もう一度出来上がった料理を眺めた。あかつきで提供する料理は、スリランカ料理である必要はないとは言っておいたものの、ゴツコラサンボルの存在により、スリランカテイストになっていると思った。
─小須賀さんは、洋風のハーブ使いがうまいけれど、杏奈はまた別の得意分野がありそうだ。
実のところ、小須賀の今の本職は、イタリアン料理店のシェフなのだ。彼はインド料理やスリランカ料理、スパイス料理に馴染みがあるわけでもないし、ましてや習ったわけでもない。アーユルヴェーダ料理の理論も、頭にない。それでも、これまでの他の分野での経験と、もともとの感覚だけで、実においしく、バランスよく仕上げてしまうのである。
本人は、杏奈に仕事を引き継いだら、あかつきを辞めると言っているが、彼はあかつきで何を得ただろうか?せっかく、数年の間あかつきで仕事をしてくれたのだ。あかつきから、小須賀にとっても何かいいものを持って帰ってもらえると良い…本当に彼が辞めるとすればの話だが。
─お互い、いい影響を与え合ってくれるといいのだけれど。
それは、料理の質以外のところでも。
実は、小須賀と接することで、杏奈が今までになかった反応を見せてくれることを、期待している。小須賀は、人の心に土足で踏み込む男…と言っては表現が悪いが、人との間にあまり隔たりを作らない。気難しい、扱いにくいと、嫌煙されるような人にでさえ、飄々として、その距離を縮め、心を開かせる。
杏奈といくつも歳が離れていない、この陽気な男が、杏奈の陽の気を引き出してくれることを期待していた。
では、小須賀は杏奈からどんなことを学べるか…
優香が階段を降りる音がして、美津子は考え事をストップして、立ち上がって出迎える。
「着替え終わりました」
まだ、ほんのり顔が上気している。
美津子は施術前と施術後の、数値の変化を説明した。途中、杏奈がお茶をお盆に載せて運んでくる。施術後のお茶は、フレッシュなレモングラスを煮出したレモングラスティーに、ミントを浮かべた清涼感のあるものだった。
それから、午後の施術の説明をする。ちょうど説明が終わる頃、お昼時になったので、美津子はそのまま優香にその場に残ってもらい、キッチンへ顔を出した。
「お願いします」
応接間での話が聞えていたのか、杏奈はすでに盛り付けをしていた。小須賀の姿は、見えない。
美津子は声だけかけると、応接間に戻り、しかし座ることなく、窓の外の様子を伺った。
「雨が降りそうですね」
「そうですね」
明日は、自由時間に、杏奈と一緒に散歩をしてきてもらおうと思っていたのだが。
二人が世間話を始めてほどなく、杏奈が料理を運んできた。見た瞬間、杏奈は完全に手順を忘れているなと、美津子は思った。ランチョンマット、カトラリ、お水とグラスが先だ。小須賀は肝心なところで席外し。大方、屋外に出てタバコでも吸っているのだろう。美津子は杏奈を軽く手で制して、足を止めさせた。杏奈は自分の失態に気が付き、キッチンに戻っていった。
「失礼します」
出直してきた杏奈は、ランチョンマットを優香の前に置き、カトラリを右側に配置した。そして、料理をのせた丸いノリタケのお皿をランチョンマットの上に置く。
「わあ…!」
諸事、律儀な反応をしてくれる優香は、料理にも、素晴らしいリアクションを見せてくれた。顔を綻ばせ、手を合わせて口元を覆う。
「おいしそう」
美津子は、気が付かない杏奈の代わりに、グラスとピッチャーをキッチンまで取りに行った。
「今日の料理は…」
戻って来ると、うんたらかんたらと杏奈が説明を始めている。料理の名前まで述べたところで、
─もう、戻れ。
と、心の中で念じるも、杏奈はその後の説明─先ほど、美津子が説明しろと言った、細かいスパイス使いの話─に入りかけているところだった。
仕方なく、軽く咳払いする。
「お料理が冷めてしまうので、先にお召し上がりください」
「あ、はい」
返事をする優香の横で、杏奈はまた、しまったという顔をする。変なところで、杏奈は気が抜けているのだ。恥ずかしそうに、美津子の横を通り過ぎて杏奈はキッチンに戻った。美津子は、その杏奈に聞こえるように、
「あとでまた、料理の説明をしに来ますから。私もスタッフも、キッチンにいるので、何かあったらこのベルを鳴らしてください」
と言って、スチールの呼び鈴を、料理から少し離れたところに置く。そうしながら、美津子は杏奈が出した料理に視線を走らせた。五分づき米と、チャナダルと野菜の煮込みが、ほぼ一対一のバランスで皿を埋めるように盛られ、その境の部分に、輪切りにしたローストズッキーニが整然と並んでいる。ゴツコラサンボルは、皿の端に、多すぎない程度に盛られている。
─緻密だな。
細部にこだわった盛り付けを見て、美津子はそんな印象を抱いた。こういう発想は、自分には出て来ないと思う。かわいらしい、女性には喜ばれそうな盛り付けだ。杏奈は割と、こういう細部にこだわる。おそらく、視覚的に美しい表現をすることが好きなのだろう。
キッチンに戻ると、杏奈がすぐさま不手際を詫びた。
「気にしないで」
小須賀もさすがに気まずそうに、
「すみません、僕が見てなかったので」
美津子はかぶりを振って、二人にも昼食を摂るよう勧める。
「美津子さんは?」
杏奈は、小須賀がさっき言っていたことを思い出して、訊く。
「午後の施術の前に、自由時間があるから、その時に食べるわ」
「私もその時でいいですか?料理の説明に行くタイミングを見ていたいし、あとで、料理の写真を応接間で撮りたいので」
別に、ダメという理由もないので美津子は承諾する。
そういえば、美津子と小須賀でクライアント対応をしている時は、あまり商用の写真を撮ることはなかった。
さっそくその日、杏奈がインスタにアップしたあかつきのお昼ごはんの写真には、他の投稿よりも多くの「いいね」がついた。写真と内容は、もちろん事前に美津子が確認した。杏奈にインスタの運用をさせるのは、しばらく先にするつもりだったが、ネタがあるなら、その都度投稿すれば良いと思い直した。変なところで気が回らない杏奈だが、こういうコツコツとした、マメなところは長所だ。
小須賀が、そこから学んだり、刺激を受けたりすることがあるとは思えないが…
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