第96話「夢」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 懐かしいマンションの一室に、小さな影がうごめく。
 小さくて、柔らかそうな、丸いフォルム。
─あれ?
 ぼんやりとしているが、それは赤ちゃんだ。
 肌色の顔、ピンク色っぽい服を着ている。
─何してんの?
 寝室から這い出てくる赤ちゃんの後ろから、懐かしい声がした気がした。
 ああ、あれは、妻だ。
─早く抱っこしてあげてよ。
 抱っこ?
 ということは、あれは自分の子供なのか…
 でも、男の子だったっけ、女の子だったっけ。
 どちらにしても…
─よかった。
 ちゃんと、自分には子供がいるじゃないか。
 なんだ。
 自分の憂鬱は全部、夢だったのか─

 目を開けると、丸太小屋の木の天井が見えた。まだ部屋の中は明るくないが、カーテンからはわずかに光が漏れ出している。
 それで羽沼は、今見ていた光景が、夢だったことに気が付いた。
 手を目の上にかざして、まだ弱い朝の光を遮断する。
─現実だったらよかったのに。
 まだ意識が朦朧とする中でも浮上したその思いは、自分の心の奥深いところにある、最も強い望みなのだろう。
 なぜこんな夢を見たのか。
 それが何を意味するのか。
─後悔してるんだ。
 そんなこと、分かっていた。けれど、何を後悔するべきなのか分からなかった。若い時に生殖能力が弱くなる何らかの行動をしていたことに対してなのか。それとも、生まれつきの特性に対し自覚がないまま、愛する人と結婚し子供を持ちたいと望んだことなのか、子供がいなかったとしても楽しくパートナーと毎日を過ごす選択をしなかったことなのか。
 いずれにせよ、もう遅い。
 まだ六時前。
 羽沼は寝返りを打ち、横寝の状態のまま、しばし横になった。
 今日は瑠璃子と万里子と一緒に、寧比曽岳に登る約束をしている。万里子の巧妙な罠なのか、勘違いによる偶然なのか、「どこかに連れて行くことのできる日」が瑠璃子に伝わってしまった。
 だが伝わったところで、瑠璃子は取り合わないだろうと思った。が、瑠璃子からのラインは、思いがけない内容だった。こちらの我儘で申し訳ないが、次の休日、自分たちに付き合ってほしい。外遊びの楽しみ方を、自分はすっかり忘れてしまったから、と…。
─お願いします。
 他に誰を誘う、誘わないという話はしなかった。ただ行先として、万里子くらいの子供ならなんとか登れそうな寧比曽岳を提案すると、すんなり快諾された。
 万里子は、自分を慕ってくれているようである。瑠璃子はというと…最近、ぎこちない接し方になっている。それがなんとなく、付き合う前の男女の機微を思わせる反応だと感じなくもない。
 デートをする約束をしたような心地がして、約束が成立してからここ数日間は、心が浮き立つようであった。
─それなのに…。
 その当日に、かつての妻と子供を育てている夢を見たということは、どういうことなのか。果たされなかった強い願望や後悔の念が、ただ蘇っただけなのか。
 別れた妻は今、どうしているのだろう。
 サラ…と寝具がすれ合う音と共に、羽沼は起き上がった。浮き浮きした気分には、到底なれなかった。
 外に出ると、天気は曇りだった。夜の間に露が降りたのか、湿気がある。
 アウトドアスペースのベンチに腰掛けて、羽沼は机に肘を付き、顔を覆った。
 再婚し、子供ができたと聞いている。あれは、再婚相手の目を通して、妻とその子供を見ていたのか。
─幸せであってくれれば、それでいい。
 自分はもう彼女の幸せを左右することはできない。ただ祈るしかなかった。しかし、その祈りは、本当に彼女のことを考えてのことではないのだろう。
─自分の罪を、軽くしたいばかりに…
 羽沼は、自分の不甲斐なさに、自己嫌悪が募るばかりだった。
 陰鬱とした感情を払いのけるために、羽沼は時間になるまで、仕掛り中の仕事に集中することにした。

 菜奈は豊川市から来た四十三歳の女性である。三つ年上のパートナーと二人暮らし。車のディーラーをしている。身長百七十一センチ。
「おはようございまーす」
 日曜の早朝にやってきた鞍馬は、彼女の身体と声のでかさに気圧された。その性格に関わらず、鞍馬は自分より背が高い女性が少し苦手だ。
「おはようございます」
「はあ~、ほんとにお人形さんみたいにきれい」
 その褒め言葉も、なんだか子ども扱いされているようで、素直に喜べない。
 菜奈と一緒に居間に入ってきた咲子は、今日もにこやかな表情をしている。咲子は体の線が分かりにくい、ゆったりとした服装をしているが、菜奈はぴっちりとしたレギンスパンツに、長袖のティーシャツで、身体のラインが分かりやすかった。スタイルの良い女性だ。
「ヨガ講師さんなんでしたっけ」
「いやいや、講師というほどでも。土日に公園とか公民館で、ゲリラ的に人を集めてやってるだけですよ」
「なるほど…お手柔らかにお願いしますね」
 ハードルを下げようとするかのように鞍馬が言うと、菜奈は笑いながら謙遜するように首を横に振った。表情が豊かで、リアクションが大きい。
「呼吸をしている間、スムーズに呼吸できるか、右と左ではどちらが呼吸しやすいのか観察してください」
 今日も呼吸法から始める。今日は完全呼吸法ではなく、ナディショーダナ。
「片鼻ずつ押さえてみると分かります」
「先生っ」
 右手で鼻を押さえながら、菜奈が左手を挙げた。その声で咲子の目がうっすらと開く。
「左が詰まってて、右の通りが良いのですが、交感神経が優位なのでしょうか」
「そうかもしれません」
 鞍馬はちょっと投げやりに答えた。今は自分の中で感じ取ってもらえるだけで良いのだけれど。
 今日のヨガシークエンスは昨日とあまり内容を変えていない。咲子としては同じポーズを取ることで、昨日との身体の反応の違いを観察できる。
「両手を脚の内側から通して足の甲をつかみます」
 クルマーサナ(真珠貝のポーズ)のインストラクションをかけながら、鞍馬は菜奈の様子を見た。身体の柔軟性は高い。修正がほとんど必要ないくらい、うまくポーズをキープしている。菜奈は決して太ってはいないが、骨太だった。体が大きいこともあってか、鞍馬が傍に寄ると、彼女の身体から熱が放出されているかのようなエネルギーを感じる。対して、咲子からはあまり熱を感じない。
「もう少し骨盤を立ててみましょうか」
 鞍馬は咲子の後ろに回って、
「背中が丸まらないように。脚の付け根から上体を前に倒して」
「かかとを少し前に出すと安定しますよ」
 横からアドバイスが飛んできた。菜奈は顔だけを咲子の方へ向けて、
「タオルをお尻の下に敷いても…ね?先生」
「…そうですね」
─やりにくい!!
 この無駄に明るいテンションも苦手だが、自分がインストラクションをしている時に横槍を入れてくるのはいい迷惑だった。

 瑠璃子の赤いゴルフは、寧比曽岳に向かって狭い山道を走っていた。車の中では後部座席に座った、万里子一人がうるさい。
「ねえ、なんてかいてあるの?よんでよんで」
「何回も見てるでしょう。座ってて」
 カーナビには今、某人気アニメ映画が映っている。結果的に、羽沼がスマホを見ながらナビをし、瑠璃子が運転する体制を取っている。
「すみません。酔いませんか?」
「いや…あれだったら、運転代わりますよ」
「大丈夫です。もうそんなにかからないし」
 粟代から寧比曽岳の登山口の一つ「大多賀峠」までは一時間弱。曲がりくねった細い山道が続く。
 羽沼は車を持っていないし、万里子をジュニアシートに座らせなければならないこともあり、瑠璃子が車を出した。その万里子はジュニアシートから身を乗り出し、頻繁に運転席と助手席の間に身を挟ませようとしていたが。
 基本的にはずっと道なりである。すでに紅葉が進んでおり、山肌から色鮮やかな広葉樹がのぞいているのが、運転しながらでも見えた。
 瑠璃子は注意深く山道を運転しながら、横目でちらっと羽沼を盗み見る。その表情はどこか冴えない。少し疲れているようにも見える。
─やっぱり、迷惑だったのかな…
 瑠璃子は遠出の予定を作ったことを、少し後悔し始めていた。
─つぎのにちようにあそびにつれていってくれるって!
 万里子はそう言っていた。羽沼と約束したと。
 それを真に受ける瑠璃子ではなかった。おそらく、羽沼は今日くらいしか暇じゃない、というようなことを言い、万里子が都合の良いように解釈したのだろう。
 誤解を正すことはできた。しかし、瑠璃子はわざと、子供の言うことを真に受けたふりをし、遊びに行く約束をした。誰かを誘う、誘わないの話は自分からはしなかったし、羽沼からもしてこなかった。
─万里子は、羽沼さんを気に入ってる…
 遭難事件の際、豪雨の中で自分を見つけ出してくれた、ヒーローくらいに思っている。時が経ち、だんだんとその時の熱量は冷めてきたかと思いきや、何かにつけて、羽沼の動画を見たがるし、丸太小屋に遊びに行こうと言う。
─でも私は…
 どういうつもりで、約束をしたのか。
 親には、今日誰と山に登るのか、本当のことは伝えず「二人でもみじを見に行く」と言って出て来た。なぜその人と三人で出かけることにしたのか、聞かれたら答えようがないからだった。万里子にも口止めするように釘を刺しているが、何かの拍子にバラしてしまうかもしれない。そうしたら、後輩の井上と取材に行ったとでも言ってはぐらかすつもりだった。どのみち、親は何か感づいても、余計なことは言ってこないだろう。
「ここです」
「わ、もういっぱいかな」
 時刻は十時過ぎ。大多賀峠のすぐ近くの駐車場は、十五台くらいは停められる広さがあったが、すでにたくさんの車が停まっている。幸運にもまだ二台ほど停められるスペースが空いていた。
「うわあ、ちょっとさむいねぇ」
「万里子、上着着てってね。山頂はもっと寒いよ」
「どのくらいさむい?」
「分からないけど、ここより寒いよ」
 寧比曽岳は愛知県豊田市にある標高1,121メートルの山。大多賀峠は標高約八百メートル。標高差は三百メートルほどだった。
「ここより、二度くらい気温が下がるかな」
 羽沼は登山靴の靴紐を縛りながら言った。
「え、にど!?ならだいじょうぶだね!」
 万里子は勇ましくリュックを背負って、瑠璃子に向かってにっこりと笑った。
─大丈夫って…なんの根拠もないくせに。
 瑠璃子はふっと笑って、
「そうだね。もしかしたら山頂まで行けないかもしれないしね」
 と、いじわるを言った。
「どうして?」
「万里子が疲れちゃうかもしれないでしょ」
「えー、ぜーったいへいき!」
 明神山より標高は高いとはいえ、スタート地点の標高が高いゆえに、山行時間は栗原登山口~明神山の半分程度。確かに、運動神経が良く田舎育ちの万里子の脚でなら、十分完登できそうだった。

 寧比曽岳は最初こそ階段続きだが、その後は軽いアップダウンのある快適な山道で、登山道も分かりやすい。
 山肌を覆う樹木の大半は杉やヒノキ。明治時代から盛んに行われた植林行政により、原生林が消えてしまったという。それでも時々目に入る広葉樹は、鮮やかに紅葉していた。
 一昨日まとまった雨が降ったためか、登山道はところどころぬかるみ、階段の丸太が滑りやすくなっている。
「はい、手つなぐ?」
 前を歩く瑠璃子は、万里子に手を差し出した。
「うん」
 と答えつつ、万里子はわざわざ後ろに下がって、最後尾を歩いていた羽沼の手をぎゅっと握った。
─なんじゃこいつ…!
 瑠璃子は思わず顔が引きつった。羽沼の顔色をちらっと窺うと、逆に気づかわし気な顔でこちらを見ている。
「ぬ、ぬかるんでるとこだけ、すみません…」
 それで瑠璃子は、すまなさそうにお願いをした。万里子の靴は登山靴ではなく、普通の運動靴。結局勾配が急でぬかるんだところは、羽沼におんぶしてもらう羽目になった。
「疲れてきてるんでしょ、万里子」
「そんなことない」
 万里子は強がってそう言うと、羽沼の背中から降りて、瑠璃子よりも先を歩いた。羽沼が追いかけるように万里子に続いて、歩く順番が入れ替わった。
 二人の後ろ姿を行く手に見ながら、山頂までの登りをひたすら登っているうちに、瑠璃子はあらぬところへ意識が飛んだ。
 まだ東京に住んでいて、職場復帰して間もない頃。
 週の終わり、金曜には疲れ切っていて、自分一人が食べるものを用意する気力がない。保育園に万里子を迎えに行く前に、小さな都会のスーパーに入る。一人暮らしの時に食べていたような既製品が詰まったその袋は、瑠璃子の孤独そのものだった。
 万里子を迎えに行くと、夫が帰るまでに、リビングでさっと夕食を済ます。万里子には作り置きした離乳食を、自分はスーパーで買った既製品を。
 その後は部屋に閉じこもり、夫が帰って来たのが音で分かっても、出ていくことはない。万里子の寝かしつけやオムツ替え、入浴、食事を与えるのがしんどくても、夫を頼ることはなかった。
 夫といることにもう意味はなかった。
 職場での自分への風当たりが変わったのを自覚した頃の、ある金曜日。小さな袋をぶら下げて、いつものスーパーから出た時、何件かラインが入っていることに気が付いた。夫のことで相談していた古い友人、会社の同期、残りの一つは親からだった。それを見た途端、ぼろぼろに泣いてしまったことを、瑠璃子は明確に覚えている。
「もうすぐじゃない?」
「どうかなぁ」
「え?ちがう?あとにかいくらいにせピークかな」
 前方で二人が時々会話をしているのが聞えてくる。
 その翌日、瑠璃子は万里子を抱っこして、子供が生まれてから行くことのなかったような、おしゃれなカフェに入った。ステンドグラスのある大きな窓、アンティークなテーブルと椅子。落ち着いた雰囲気のカフェで、まだ一歳にも満たない赤ちゃんを連れている母親はひとりもいない。
 メニューの中で一番安いプリンを単品で注文した。それを選んだのは、でも、値段が理由ではなかった。
 中距離恋愛だった夫と訪れたことのあるカフェ、かつて頼んだメニュー。長細いボート型の器に、プリンやアイスクリーム、生クリーム、フルーツが華やかに盛られていた。泣いて暴れる万里子をなだめつつ、無心にそれを味わったのを覚えている。そうして夫との記憶を、万里子との記憶に上書きしたのだ。
 そして瑠璃子は、東京を離れた。
─理想的な相手だと思っていたのに…
 まだ万里子を身ごもる前、会社の同期と横浜中華街に遊びに行った時、付き合いで占いをした。その時出た結果なんて、嘘だと思っていたのに…。
「長谷川さん」
 羽沼の声がして、瑠璃子はさっと顔を上げた。
「はい」
「もう、山頂ですよ。万里子ちゃん走っていっちゃったんで、先行きますね」
 そう言うと羽沼は最後の急登を走って行った。その様子を見ながら、
─またやってしまった…
 と、瑠璃子はため息を吐いた。
 心が昔を旅して、今の万里子を見失ってしまう。
─ちゃんと目の前を見てなきゃ。
 万里子を見失ったとて、またあの大雨の日のように、誰かが連れ戻してくれるとは限らないのだから。

 空楽は洗濯物を浸け置きすると、応接間に入った。美津子は菜奈の施術中で、応接間には杏奈一人。事務仕事をしていた。
「杏奈さん、咲子さんが夢を見たんですって」
 空楽に話しかけられて、杏奈はキーボードを打つ手を止めた。空楽はお誕生日席に回り込み、
「夢の中で、実家にいたらしいんですけど、部屋の扉を開けても開けても、誰もいないんですって」
 立ったまま、話を続けた。
「怖くなって、目を覚ました後、母親にラインして生存確認までしちゃったって…」
「…」
「その夢、何か意味があるんでしょうかね…」
 杏奈は空楽に視線を向け、もう少し詳しい状況を尋ねた。咲子は素朴な疑問を口にしただけで、特に返答を求められてはいないらしかった。
「日常生活では処理できないような感情や状況を、夢から学ぶこともできます」
 杏奈はマウスを動かし、一つの資料を探し出した。それは、テキストには載せていない知識だった。
「資料をラインで送るので、読んでみてください…今手が離せなくって」
「はい。でも、杏奈さんの口から教えてほしいんですけど。簡単にでいいです」
「私もまだ、理解が不十分なので」
 杏奈はそう言って笑った。
「でも、お聞きしたところ、それはヴァータ性の夢ですね」
「ヴァータ性の夢?」
 杏奈は頷いた。
「扉を開けると、そこには誰もいなくて、怖くて、不安になったんですよね」
「うーん…そうらしいです」
 誰もいない空間は、ヴァータが抱きやすい空虚感、寂しさ、孤独を表している。
─その部屋は、実家…と言っていたが。
 体のある部分のことを言っているのかもしれなかった。
 その夢は、咲子が何かしらの恐れや不安を抱いていることを意味している。
「開きました」
 空楽はスマホを杏奈に近づけ、二人で画面をのぞき込んだ。杏奈のことだから、膨大な資料が送られてきたかと思いきや、PDFは一枚だけで、すぐ読めそうだった。

─夢
 夢の世界では、イメージと言葉あるいはイメージだけを通して、声にならない心からのメッセージが明らかにされ、現在意識にないものを照らし出します。夢に注目することで、未解決の問題や感情が明らかになり、正しい自己認識をすることにもつながります。
 アーユルヴェーダでは、夢はマッジャダートゥー(神経系と骨髄に関連する組織)に関連していると考えられています。
 夢によって、神経が精神的な印象などの情報を、放電しているのです。未解決の思考、感情、行動を終結させるための、自然な方法なのです。
 夢を通して、自分の状況に気づき、理解し、治癒のプロセスを開始することができます。夢に見たこと、夢の中でどういう思考を持ったかを理解することで、バランスの乱れをより明確に把握できます。
 全ての夢は、ヴァータ、ピッタ、カパに分類され、特有の特徴があります。夢は、どのドーシャが影響を与えているかを教えてくれます。反対に、ドーシャがバランスを崩していることは、夢でそのメッセージが伝わってくるまで気づかないかもしれません。乱れているドーシャが分かれば、そのバランスをとるための手段を講じ、最終的には問題を癒すことができます。

■ヴァータの夢
 たくさん夢を見て、簡単に忘れます。朝、夢を見たことは覚えていても、断片的にしか覚えていないかもしれません。数日か数週間おきに、安眠の期間と、鮮明に夢を見る期間が交互に繰り返されることがあります。
 ヴァータの夢は、非常に活発で、走る、飛ぶ、跳ぶ、落ちるなどの動きをします。暴力的で、激しく、行動的な夢を見ることもあります。休むべき時でさえ、彼らのマインドはエネルギーを使い続けているのです。
 動き─特に空を飛ぶような─は、典型的なヴァータの夢であり、何かや誰かに悩まされている証拠です。不安、恐怖、パニック、混乱、追われる、凍る、死ぬなどの夢も、ヴァータがバランスを崩している時に見やすい夢です。

■ピッタの夢
 ピッタの人はたいてい夢を覚えています。カラーで夢を見ます。
 ピッタの夢は情熱的で激しく、問題解決、教育、勉強、仕事、買い物の夢であることが多い。ピッタに関連した感情を抱く場面を夢見ることも多い。怒り、批判、判断、失敗、恥ずかしい思いをする、など。
 家が燃えるなどの火の側面、光、熱、他のエネルギーと関係した夢を見ることもあります。

■カパの夢
 カパの人はその夢が感情に訴えるものであるほど、夢を覚えている傾向があります。
 カパの人々はおだやかで落ち着いた、平和な夢を見ます。恋愛、欲望、感傷、執着、無気力などに関連した夢であることが多い。
 泳ぐ、雪、湖、川など、水の表現が含まれるかもしれません。

「杏奈さん」
 流し読みした後で、空楽は杏奈に声をかけた。杏奈はすでに作業に戻っていたが、再び手を止めて、空楽を仰ぎ見た。 
「夢がどのドーシャとの関連性があるのか…お伝えします?」
 杏奈の口がわずかに開き、視線が動いた。
「咲子さんの夢が─」
「─ううん」
 空楽が思っていたよりも早く、答えが出た。
「聞かれたら答えて」
 でも、そうでなければ、教える必要はない。前回咲子が来た時、理論は十分に伝えた。難しいことも含めて、話しすぎた。
「今はただ、のんびりと穏やかに過ごして、身も心も綺麗になっていただければ、それでいい」
 もう理論はおいて、ディナチャリヤを実践し、心も体もリラックスすることに集中する段階である。
─彼女があかつきにいらっしゃる間は、私たちが彼女の乱れを捉え、環境を整えれば良い。
 咲子はおそらく、あかつきを去った後、最初の月で、試みるつもりだろう。その時に、最もクリアなマインドで、最も美しい自分で、その瞬間動物的になってもらえれば、それでよいのだ。それまでは、頭であれこれ考えることは、余計なことに思えた。
「ところで杏奈さん」
「はい」
 杏奈の中ではすでに、この話は終わりになっていたのか、その視線はパソコンの画面上に戻っていた。
「…足込町の青年町おこし協力隊から、次の金曜か土曜に飲み会しよーって連絡来てましたけど」
「…」
 杏奈は口をぽかんと開け、目を見開いた。先ほどラインに通知が来ていた気がしたが、そのような話だとは思わなかった。
「…どうします?」
 空楽の位置からは杏奈の表情は見えないが、狼狽しているのが手に取るように分かった。この手の集まりは、杏奈にとって一番苦手なものであるに違いない。
 それにしても、よりによって…
「…どうして、このタイミングなんですか」
「…ですよね」

「近くに紅葉の隠れた名所があるみたいなんですけど、行ってみますか?」
 寧比曽岳から下山し、軽く食事をした後で、羽沼は二人を誘った。寧比曽岳は針葉樹林が多く、明神山や御殿山に比べると紅葉が見劣りする気がした。
「ここから車でニ十分くらいです」
「はい」
 そこからは、羽沼が運転をした。
 瑠璃子はいつもよりも元気がないように見えた。登山中は、万里子は母親よりも自分にまとわりついていて、会話をする相手がいなかったからかもしれないが。どこかここにいるようで、ここにいないような感じ。
 秋という季節は、気持ちを内向きにさせる。人恋しさ、家庭の暖かさを必要とし、寂しさや郷愁を感じさせる季節だ。明け方の自分と同じで、瑠璃子も何か、回顧的になっているのだろうか。
─それなりに年を重ねているんだから…
 そういうことがあっても、仕方がない。と、羽沼は思う。自分たちは輝く夏の日差しのような時を生きる、十代や二十そこそこの若者ではないのだ。
 万里子はほとんど自分の脚で寧比曽岳を登り下りしたが、次の目的地までの道中もずっと元気だった。黙りがちな二人にとって、万里子の元気さは救いであった。
 三人がやってきたのはタカドヤ湿地。隠れた紅葉スポットであり、思っていたよりも多くの人が訪れていて、車を置くのには苦労した。
 湿地はアップダウンのない、木道や橋の周回路がある湿地帯で、紅葉を見に来た人で賑わっている。赤から黄色の紅葉まで、バラエティゆたかな色彩が楽しめる。中でも上と下の湿地の間にある真紅の紅葉が素晴らしい。万里子はその紅葉の下に立つと、ひらひらと舞い落ちるもみじを掴み取ろうとするかのように、手を伸ばした。その様子があまりにも可愛らしかったので、羽沼は素早くスマホを取り出し、その姿を写真に収めた。
 一方瑠璃子は、青空と紅葉を映し、まるで絵画のようになった湿地に目を奪われていた。
「綺麗…」
 瑠璃子は思わず呟いた。
─こんなに、綺麗だったのか。
 秋は。
 近くにあった、山の自然は。
─思えば…
 と、瑠璃子はまた少し、自分を分析していた。
 自分たちのことを気にもしていない夫に、いかに自分たちが幸せであるか…それを見せつけたいという一心で、今まで頑張ってきたようなものだ。そうしないと、小さなスーパーで、孤独を詰め込んだビニール袋を提げて出て来た自分が救われないような気がして。
 けれど、それを証明したところで、誰が喜ぶというのか。
 違うところばかりに目を向けていると、近くにある美しいものに、気付けなくなってしまう。今目の前にあるものをしっかり見るべきだ。今やっと、そう思えるようになった。
─それくらいのことが、やっと…!
 自分はずい分と、強がっていたらしい。
 瑠璃子はひらひらと舞落ちる落ち葉に、自分の感情を込めていった。夫を恨んだいくつもの日々。万里子を抱っこしながら心細さに泣いたいくつもの夜。後悔や、誰かを羨む気持ち。全てを一人でこなさなければと躍起になる心。自分にとって必要でないものを、落ち葉のひとひら、ひとひらに込めて、それが水に浮かぶのを眺める。それらはやがて、朽ちていく。
 そのイメージをした後で、瑠璃子は、ようやくほうっと息を吐きだした。すると、顔の緊張が幾分か緩んだ気がした。
「瑠璃子さん」
 羽沼に声をかけられて、瑠璃子は後ろを振り返った。
「見てこれ」
 スマホの画面を見ると、そこには生き生きとした表情で、紅に色づいた落ち葉に手を伸ばす万里子が映っていた。
─あ…
 どうやら自分は、またもや、万里子の最高の瞬間を見逃してしまったらしい。
「いい写真だね」
 羽沼はそう言ながら、ふと瑠璃子のほうを向いた。そこには、大輪の花のように美しい、瑠璃子の笑顔があった。
 先ほどまでどこか翳りを見せていた瑠璃子の、その純粋に嬉しそうな笑顔を見た瞬間、羽沼は今朝がた自分が抱いた憂いも忘れて、嬉しさがこみ上げた。
 瑠璃子は羽沼のスマホを眺めながら、小さく笑い声を立てた。涙が出そうだった。自分が見逃してしまった最高の瞬間を、写真でもって、シェアしてくれる人の存在が、嬉しかった。写真を見れば、幸せな瞬間を、何度でも思い出すことができる。何度でも。
「わあ」
 スマホを見るのに夢中になっている二人の後ろで、万里子がつるんと転んだ。上ばかり見ていて、よろけてしまったのだ。
 今この瞬間の万里子から目を背けていた二人は、互いの目を見合って、ほとんど同時に笑った。

「万里子」
 風呂上り、あおいはテレビ台に手をかけてテレビを見る万里子に注意をした。
「離れて見な」
「うん」
 万里子はそう答えたが、目が点になっている。
「あの子、今日山登ったんじゃないの?疲れてないのかね」
 万里子は、もう普段から昼寝はしていないが、さすがに今日は疲れているはずだ。
「帰りの車の中で少し寝たから」
 といっても、三十分くらいだったが。
「万里子、眠いでしょう。早く寝るよ」
「うーん」
 万里子は上の空で返事をした。
 強制的にテレビを切っても、癇癪を起すことなく、自ら階段へ向かう。やはり疲れて、眠気を覚えているらしい。
「ママ…」
 万里子は布団に入ると、しどろもどろに言った。
「たのしかったねぇ」
「うん。そうだね」
 瑠璃子は万里子の隣に添い寝しながら、ポンポンとお腹を規則的に叩いた。
 口止めをされていたので、今日どんなことをして遊んだのか、詳細は、食卓での会話に出せなかったのだ。ようやく今日の思い出を振り返られる状況になったが、すでに眠気に襲われて、万里子はほどなく、すうすうと寝息を立てだした。
 背が伸び、手足も長くなってきたけれど、まだ頬がぽちゃっと膨らんでいるところが子供らしい。
 瑠璃子はそうっと立ち上がって、静かにクローゼットを開けた。帰宅してから、密かに選んでおいた服に着替える。
「お母さん、万里子寝たから」
「うん。あんた、こんな時間から…」
 と言ってあおいは時計を見た。
「明日仕事なのに大丈夫なのかね。送って行こうか」
「ううん。途中で迎えに来てくれるから」
 瑠璃子は言葉少なに、洗面所に入って扉を閉めた。そしてそこで、薄化粧をする。
─今日のお出かけはこれで終わりですか?
 帰り途中。万里子が寝入ったのをバックミラーで確認すると、瑠璃子は、ためらいがちに尋ねた。
─え?
 羽沼は動揺していた。
─まだ、どっか行く?
 後ろで万里子は眠っているけれど…
 横を向くと、瑠璃子もちらと羽沼を見た。訊いておきながら、途方に暮れたような表情をしている瑠璃子を見て、羽沼は全身が熱くなった。
─…はい。行きたいです…
 ドクドクと心臓が早く鼓動するのを意識しながら、瑠璃子は言った。もう隣にいる人を見ていられなかった。
─でも、万里子ちゃん寝てるし…
 羽沼は困ったなというように自分の首を触った。
─出直しますか?
 そして、二人で会う約束をした。
 場所がいつもの居酒屋・彩になったことで、羽沼が予防線を張っているのだと分かった。
 けれど、それでも良い。
─会いたい。
 今日あれだけ一緒の時間を過ごしていたのに、また会いたいと思っている。
 親には、万里子が寝てから、久しぶりに地元に帰った友人宅へお茶しに行くと、無理な嘘を吐いた。しかし、親たちは何も言わなかった。
 粟代と月の境にあたる林道まで歩くと、羽沼が立っているのが見えた。そこまで、瑠璃子は小走りで近づいた。
「すみません。寝かしつけるのに時間がかかっちゃって…」
「寝ましたか」
「はい」
 新月が近い。外は真っ暗だった。
 瑠璃子は懐中電灯を持っていて、羽沼はヘッドライトを手に持っていた。並んで足元を照らして歩きながら、今どういう名目で会っているのか、二人には分からない。けれど、どちらもそれを訊ねようとはしなかった。

 


 

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