第104話「柔らかい時間」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「じゃあ、お願いね」
「はい。いってらっしゃい」
 洗濯干しを南側に移動させるところまで手伝うと、美津子は善光寺へ出かけた。
 オイルを多少なりとも吸収したタオルは、念入りに予洗いした後洗濯をしているが、晴天の日には乾燥機にはかけず、できるだけ天日干ししたほうが良い。
 あかつき大作戦は、この日、十一月の最後の日曜、午前中の施術で終了した。最後は杏奈が仁美に、永井が真紀にシロダーラをし、美津子が単発のお客・都のアビヤンガを担当した。昼食の後、クライアントを送り出すと、気分が開放的になる。
「はー」
 杏奈は誰もいない母屋の中で、気兼ねなく書斎のソファにごろんとした。うーんと伸びをする。
「気持ちいい…」
 そこでそのまま、まどろんでしまいそうだ。
 昼寝はカパを上げ、アーマを蓄積する恐れがある。杏奈は寝入らないうちに体を起こし、昼食の片付けをした。キッチンの片付けが終わる頃には、洗濯も終わるだろう。クライアントがいる間、東側に置いていた物干しも、南側に移し終えている。この時期、タオル類は天日干しするだけでは、柔らかくなりにくいので、たまにアイロンがけしなければならない。
─重い…
 大判タオルをいくつも物干し竿にかけながら、杏奈はいつになく疲労を感じた。連日、トリートメントや滞在中の生活サポートを行っていたため、身も心も疲れ果てている。
 クライアントが帰った後も、やることはいろいろある。杏奈は思いっきり休むために、それらの雑務を粛々と進めた。

 南天丸は冬枯れの里の小径を軽快に歩きながら、時々後ろに続く順正を振り返った。
 先週は快晴が続き、空気か乾燥している。先ほどまで曇っていたが、今は太陽が出て、あかつきへ続く小径は柔らかい光に照らされていた。
 明神山の下りは単調で、順正はだるさを覚えている。仕事柄もともと忙しいのと、人材不足なところに、自身あるいは家族が風邪やインフルエンザで勤務を休むスタッフがいて、先週は特に目まぐるしい日々が続いた。名古屋に出張した際に持ち帰った、研究に関する課題にも手をつけていたが、進みが悪かった。
 疲れているのなら家で休んでいればよいのだが、オンコールから解放される貴重な日曜なので、無理くり足込町に足を運んでいる。頭を空っぽにさせたいのだった。 
 あかつきの客用駐車場には、車が停まっていない。車で来る客ばかりとは限らないが、車があればその時点で回れ右をし、アカガシの育つ聖域を借りるつもりだった。
 門を開けると、キィ…と鈍い音がした。
 南天丸は主人より先に敷居をまたいだ。そのまますぐに走り出さなかったのは、行く手に人の姿があったからである。
 あかつきの正装をした女が、茶色い大きなタオルをいくつも干していた。
 順正はおよそ一か月ぶりに足を踏み入れたあかつきの庭の様子を眺めた。畑の野菜は実り良いとはいえない。というより、ほとんど収穫されているようである。垣根の傍でプランター栽培されている植物のほとんどには、防寒ネットがかけられ、春や夏の頃よりも、景気が寒々しい。
 ぱんっ、ぱんっ
 と音を立ててタオルをはたき、伸ばしていた女は、順正と南天丸の来訪に気づき、くるりと振り向いた。
 順正は一瞬、誰なのか分からなかった。あかつきの施術着は、花菱模様と袂のない袖が印象的な二部式着物で、ピンクグレイの前掛けを留める、鹿の子文が散りばめられた大きくて長い帯が特徴である。この施術着を身につけて施術にあたるセラピストは、最近では美津子と沙羅だけだった。
「先生」
 女が声を出す頃には、順正はそれが杏奈だと気づいていた。服装と髪型が違ったので、一瞬新入りかと思った。
「こんにちは」
 杏奈は挨拶をしたが、どこかぎこちなかった。スタッフ用の駐車場のある西側に顔を向けながら、
「美津子さんは少し前に善光寺に…」
「そうか」
 順正は答えながら、物干しに干されている大小のタオルを眺めた。その多さは、いかにあかつきが活気づいていたかを物語っている。それにしても、晴れてはいるが日射しが弱く、風もない午後に、乾きが悪そうだ。
「お客さんいるの?」
「あ、いいえ」
 杏奈は答えながら、次のタオルを取ると、ぱんっ、ぱんっとはたいた。前腕がだるくて、力が入らない。
「今日の午前中でみんな帰りました」
 杏奈は背伸びをして竿に大きなタオルをかけ、大きな洗濯ばさみで留めながら、ちらと順正に視線を向けた。
─直に帰ってくるから家に入って待っていてください。
 などと言わないということは、邪険にされているような気もしたが、順正は母屋に入った。特に用事もなく、ふらりと来訪しただけだから、邪魔なら帰ってもよかったのだが、ともかく南天丸に水をやりたいと思う。
 キッチンに入ると、食べ物の濃いにおいがした。洗った食器が調理台の上に置かれたまま、元の場所にしまわれていないところを見ると、拭き上げられたばかりのようだ。
 順正はいつものように給水器をピックアップすると、庭にいる南天丸に水をやった。
 
 洗濯物を干し終えた杏奈は、玄関の近くにかごを置きながら、ようやく雑務が終わったことにほっとしていた。
 ホールを通ると、書斎のソファに順正がいるのが見えて、ちょっと緊張するのと同時に、落胆してしまう。
─今から寛ごうと思ってたのに…
 書斎のソファでゴロゴロしながら、美津子がいない隙に、余ったオージャスアップデーツやデーツのギー漬けをつまみつつ、お茶しようと思っていたのに。人がいたら(しかもこの男がいたら)、思いっきり寛げない…
 ゆっくりするのに、応接間の硬い椅子ではいけなかった。だらんとできるソファが良かったのだ。
─出ていかないのかな…
 そうっと書斎に近寄ると、順正が着ていたマウンテンパーカーがコートハンガーにかけられていた。本人はソファに頭まで預けていて、目を閉じている。静かにしているのだから、いてもあまり気になるわけではないし、あからさまに避けるのも決まりが悪い気もするが、
─離れに行こうかな…
 と杏奈は思った。南向きの母屋のほうが暖かいのだが、誰に気兼ねするでもなく寛げる。
 考えあぐねているうちに、順正が目を開いてこちらを向く。様子を窺っていたのを見られて、杏奈はちょっと気まずい思いがした。それと同時に、嗅いだことのある森のにおいがかすかに感じられて、思わず深く息を吸う。土や木の幹、花や葉の、様々なにおいが入り混じった、なじみのある匂いだ。
 それにしても、順正はいつになく気が抜けたような、とろんとした目をしている。が、綺麗な顔は変わりない。グレーの柔らかそうなトップスに、生成りのズボン。マウンテンパーカーを脱げば、普通に街を歩いていそうな男の人に見えた。つまり、順正にとって明神山は、普通に街を歩くような気分で行く場所だということだ。
「先生。咲…えーっと、クライアントのことで、アドバイスをくださりありがとうございました」
 話をする用事があったのだという体を装って、杏奈は覗き見していたきまり悪さを払拭しようとした。順正の対面のソファに近づき、起立したまま礼を言う。実際、ありがたいことではあった。順正は杏奈が前に立っても、居ずまいを正すことなく、再び目を閉じながら、
「うん…まあ、うまくやってくれ」
 順正にしては間の抜けた返事の仕方だったし、歯切れが悪かった。言いたいことを飲み込んでいるようでも、言うのも面倒くさがっているようでもあった。だが、その低い声には、呆れたような響きはあったものの、侮蔑しているようには聞こえなかった。
 シャープなフェイスラインに、首筋、突き出た喉仏。窓のほうを向く順正の横顔に視線が吸い寄せられるとともに、杏奈はこの男もまた疲労していることに気が付いた。
 そういえば、研究で名古屋に行っていたと聞いている。咲子の件で美津子が問い合わせをした際、四方山話をする中でその話になったのだそうだ。上沢での実務だけではない。常にこの分野の前進に向けて力を注いでいる。目標に向かって努力を続ける姿には、尊敬を覚える。
 杏奈はその場に流れるエネルギーに、足止めを食らった。たとえ疲れてきって、ソファに身を委ねていても、この男からは高い波動を感じる。自分ももっと頑張れるはずだと鼓舞される。
 手持無沙汰に、杏奈はソファにかけてあったひざ掛けを腕に掛けた。その時、ため息のような、長い吐息を聞いた。
「なんでそこまで…」
 順正がつぶやくように言った後で、少し間ができた。妊活をしている夫婦に、タイミングを取るアドバイスする。あかつきがクライアントに果たすべき役割を超えて踏み込んでいることに対して、共感しかねているのだろうか。
「…いや、普通そうなのかな。そこまでしてでも、ほしいと思うものだろうか…」
 杏奈は目を瞬いた。予想していた意味ではなかった。そういう意味なのか。
 順正は自分に答えを求めて、疑問符を浮かべたのではない。独り言だ。
─どうしてそこまで…
 けれど、その独り言を聞いて、杏奈は自然に思考を巡らせていた。
 窓から柔らかい陽射しが入ってくる。目の前の男はソファに身を沈め、目を閉じたまま、今にも眠りそうに見えた。ずいぶんとリラックスしている。
 杏奈がゆっくりする筈だったソファで無防備な状態をさらしている順正は、最初の印象とは対照的に、意外なほど穏やかに見えた。疲れている様子だが、不機嫌そうには見えなかった。
 再び順正の目がぱっと開いたので、
「…先生は、最初から産婦人科の医師を希望されていたんですか?」
 じっと見ていたのに気付かれたかもしれないという動揺を隠すため、苦し紛れに、そう訊いた。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「今回、クライアントの中に女医さんがいて…どう自分の専門を決めたかという話になったので」
 順正は少し顎を引き、うつろな目で虚空を見やっていた。杏奈はソファのひじ掛け部分にちょこんと腰を下ろした。
「先生は、外傷を見たり、メスを入れたりするの、平気なんですか?」
 答える気がなさそうなので、杏奈は常日頃医者に対して疑問に思っていることを訊いた。
 順正は視線を虚空に置いたまま、沈黙している。杏奈が話しかけてこなければ、眠ってしまっていたかもしれない。
「私は、血を見るのが怖いので…」
 採血のための注射すら、見ていられない。
 順正は視線を杏奈に移した。なぜソファではなく、そのひじ掛け部分に座っているのか、解せない。というかそんなところに座れるくらい小柄であることに、今更ながら気づいた。 
「慣れだよ」
 順正はなんでもないことのように言った。
「慣れ、ですか」
「直に何も感じなくなる」
 その答えに、杏奈は小首を傾げた。
─いや…それはたぶん、限られた人だけだと思うけど…
 しかし、順正は杏奈にとってますます共感しかねることを言った。
「解剖の授業もそうだった」
「解剖の授業なんて…ありました?」
 杏奈の世代では、動物の解剖を授業ですることは廃止されていた。
「医学部ではあるけど、途中からは、どこを切り開こうが、フーンで終わる」
「…」
「研修医の頃は、外傷の患者をわけも分からず受け入れることはしょっちゅうだった」
 杏奈は目を瞬いた。
「夜間や休日の救急外来は、ほとんど研修医しかいなかった」
「…駆り出されてたんですね」
 良いように使われていたんですね、と言いそうになったが、そこは言葉を選ぶ。
「よく頭部創傷の子供が来た」
「子供は…よく頭を怪我しそうですね」
 杏奈は甥っ子や沙羅の娘たちを思い出しながら言った。
「子供の頭部は意外と、皮膚が厚くて、針が通りにくい。おまけに暴れるしで…最後の方は面倒くさいからホチキスで留めてたな」
「ホチキスで留める?」
 順正はふうを息を吐きながら身を起こし、サラサラとした前髪をかき上げた。杏奈が驚いた様子をしていても、それに反応するでもない。
 これ以上話そうという気配がなかったので、杏奈は腰を上げようとした。
「ここにもテレビなんかあったのか」
 順正がふいに身を起こしたので、杏奈はその動きに気を取られた。リモコンに手を伸ばし、電源をつけても、画面は暗いまま。
「このテレビは、クライアントにパソコンの画面を共有するために使っていたんです」
 それには答えず、順正は画面を切り替えて、録画リストを表示し、選択項目をどんどん下に動かしていく。
─何が録画してあるのか、見たことなかったな…
 美津子のプライバシーに関わると思い、他のスタッフもほとんどそれを見る者はいなかった。録画されているのは、朝ドラ、大河ドラマ、健康番組、ドキュメンタリー…時々、映画を見かける。
 いたずらに何かを詮索されるくらいなら、テレビでも見させておいたほうがましだと思ったのだろうか。けれども、なかなかこれという番組がないのか、再生ボタンではなく下向き矢印ボタンが押されるばかり。
「…ろくな映画がないな」
「先生、映画とか見るんですか?」
「…飛行機の中とかで」
「そんなに乗りますか?飛行機」
「学会が北海道である時くらい…」
 ではほとんど見ないということではないか、と思いながら、杏奈は録画リストに目を凝らした。
「あ、トロイア戦記…」
「渋いな」
 順正はふっと笑った。杏奈としては、これがいいというより、懐かしいと思って口にしただけだったのだが。
「これももう、大分古いですよね」
 それに対し、順正はただ唸っただけ。
「どういう物語でしたっけ」
「お前文系か」
「はい」
「なら知ってるだろう」
「いやぁ…」
 文系だからといって、世界史に詳しいと思ってもらっては困る。
「見たことありますか?」
「学生の頃飛行機で…」
 また飛行機か。
「ただ俳優の肉体美を見せるための映画だと思った記憶しかないな…」
 と言いつつ、その映画を再生する。
 古代の王国同士の戦争を題材にした、大昔の歴史映画。長年争っていた二つの国がようやく和平を結び、祝宴が催される。しかし、宴の最中に若い王子が、あろうことか相手国の王妃と恋に落ち、秘密裏に城へ連れ去ってしまう。
「思い出した」
 その部分を見て順正は、意地の悪い笑みを浮かべた。相変わらず、身体をソファに預けたままだった。
「こいつが笑えるくらいクズだ。クズ過ぎて先が読める」
「…」
 順正の言い様に、杏奈は苦笑いをするしかなかった。
 順正は動きのある部分だけ再生して、つまらない台詞が続くと、そのシーンは飛ばしてしまう。
「何か飲むものをくれる?」
「あ…すみません」
 客人ではないし、頼みもしないことをしても嫌がられるかと思い、何も出していなかったのだが…
「普通のお茶でいいですか?」
「…うん」
 お茶に「普通の」がつくのが解せないまま、順正は答えた。
 急須にほうじ茶を入れて、ポットと湯呑を二つ、ローテーブルにおく。
 杏奈はようやく、ちゃんとソファに座り、ひざ掛けを膝においた。
「どういう展開ですか?」
「今からこいつらが妻を奪還しに乗り込むところだ」
 妻を連れ去られた王は激怒し、野心に満ちた兄の国王を巻き込んで、大軍を率いて相手国へ侵攻を開始する。
 順正はリモコンをずっと持ったまま、早送りしまくるので、話についていけない。動画を倍速再生するのとは違って、音が聞えないので、
「先生…話が分からないんですけど」
「こんなの二時間も見てられるか」
 後世に名を残すことに執着する最強の戦士が参戦し、真っ先に神殿へ攻め込んで海岸線を制圧する。
「ほら。こいつの肉体美を見せたいだけだ」
 と、順正は要らない解説をする。
「確かに…すごい筋肉ですね」
 杏奈は当たり障りのない相槌を打つ。
 神殿を襲撃した最強の戦士だったが、そこに仕えていた敵国の美しい巫女にひと目で惚れ込んでしまう。彼女に心を奪われて戦意を失う戦士。主力を欠いた味方の陣営は、一転して窮地に陥る。
「どうしようもないクズ野郎ばかりだ」
 順正はお茶を飲み込み、またもや意地の悪い笑みを浮かべる。
 味方のピンチを見かねた若い従兄弟が、戦士の影武者となって戦場へ繰り出し、見事な立ち回りを見せる。だが、敵国の圧倒的な勇士と対峙し、あっけなく命を落としてしまう。痛々しい場面に思わず身をすくませる杏奈を見て、順正は彼女が血を嫌がっていたことを思い出した。一方で、戦を忘れて巫女と甘い時間を過ごしていた戦士は、従兄弟が殺されたと知るや否や、怒りを爆発させる。
「お前のせいだろう」
 順正はさっきから痛烈な突っ込みを入れている。
 英雄と敵国の巫女が魅せるロマンチックな場面では、杏奈はどういう顔をしたら良いか分からず、一人で密かに焦っていた。順正はそうしたシーンでも表情ひとつ変えることなく、淡々と早送りしていく。やがて戦場へ舞い戻った英雄は、従兄弟を討った敵の王子と一騎討ちを繰り広げ、相手の亡骸を引きずり回すほどの激怒を見せるのだった。
「いや、だからお前のせいだろう」
 心が痛む場面だが、嘲笑を帯びた順正の低い声が聞こえると、杏奈は俯いて苦笑いするのを見られないようにした。このひとは一人でもこうやって突っ込みを入れながら視聴するのだろうか。
─そこまでしてでも、ほしいと思うものだろうか…
「…」
 杏奈は映画をぼんやり見ながら、その答えを、どう言葉にしようか、ずっと考えている。時々考えるのをやめては、また考える。答えの内容だけでなく、それをこの人に伝えてもいいものだろうかとも思う。なぜ伝えたいと思うのだろう。
 それにしても、窓から差し込んでくる光は暖かい。もうすぐ十二月だが、室内が暖められていることもあり、ひざ掛けのぬくもりも相まって、杏奈はまた急激に眠気を覚えだした。肩や首、前腕、指が疲労している。トリートメントは準備と片付けも含めて肉体労働。パソコンとスマホもやりすぎだ。
「見せ場だぞ」
 囁くような順正の小声が聞えて、意識が飛びそうになっていた杏奈はふっと現に引き戻された。
 敵の猛攻に押されて撤退を余儀なくされた侵攻軍の智将は、ある奇策を思いつく。軍内で疫病が流行して撤退したと見せかけ、海岸に巨大な木馬の像を残したのだ。その内部に精鋭を潜ませ、城内へと侵入させる作戦である。このあまりにも有名な「木馬」のシーンになって、ようやく順正はリモコンを置いた。一応、この映画の佳境だから、通常速度で見ようと思ったのだろう。
「あのう、先生」
 その時になって、ようやく杏奈は口を開いた。順正が横目で杏奈を見る。
「さっき、クライアントに相談した件でお話してた…そこまでしてでも、子供がほしいと思う理由…なんですが」
 杏奈は順正を見ていなかった。テレビ画面をおもむろに見ている。
「…私の想像なんですけど、子供が宿った瞬間に…または、一度でも強く欲した瞬間に、それが出てくるのではないでしょうか。母性が」
 そこまで言った後で、杏奈は胸を大きく膨らませた。無意識のうちに呼吸が浅くなって、そこまで言い切るだけで、呼吸が尽きていた。順正はその様子を目撃する。
「今まで閉じられていたチャネルが開き…子を抱きたいと思う、子を大切に思い、守ろうとする…母性が駆け巡る。一度、それに目覚めてしまったら、なかなか、その思いを振り切るのは、難しいのではないかと思います。本能、生理的欲求に近いんじゃないでしょうか」
 生殖本能だから、ということだろうか。言っている意味は分からなくはない。順正の視線は再びテレビ画面に向いていたが、映画の内容が頭に入ってこない。
「それは、たとえ子宮から命の種が流れた後でさえ、母体の中を滞留します。そして切に願うようになるのではないでしょうか…愛しいわが子を、この手に…」
 杏奈は両手でエプロンを握りしめ、そっと離した。最後の言葉を飲み込む代わりに、ふうと吐息をする。
 このひとには、うまく、伝わっただろうか。
 画面の中では、激しい戦闘場面が繰り広げられているけれど、それを見るともなしに見ている順正は無表情だった。
─母性。
 男には分からないものなのかもしれない。そう思った後で、順正は、何か違和感を覚えた。
 杏奈は唇を結んだ。沈黙が少し苦しい。そっと順正の目に視線を向けると、一瞬目が合い、それからすぐ離れた。
「なるほどな」
 彼の口から出た相槌はそれだけだった。
 杏奈は胸中がざわついていたけれど、それを自覚したまま、手放していくように努めた。
 城内の住民たちが、忍び込んだ兵士たちからの奇襲を受けて逃げ惑っている。必死に家族を、愛する人を守ろうとしている。そんな場面を、二人は無言でぼんやりと眺めていた。順正の突っ込みも、いつしか止んでいる。
 順正は、すうと深く息を吸った。すると、今まで感じなかった香りがする。順正は呼吸とともに、そのかすかな香りが何であるか、思い出そうとした。森林の匂いのようでもあるが、もっと刺激がある薬草のような、そして甘い匂い。懐かしい匂いだった。
 目線だけを横に移すと、杏奈が結い上げた髪を下ろしていた。編み込みをほどくと同時に、髪が溜め込んでいた匂いが流れたのだった。杏奈としては、もうそのままでいる必要性がないからほどいただけだった。髪をきつく結ったままでいると、頭部の血行不良を促すばかりだから。
 見るからに柔らかそうな黒髪が肩の後ろに、前に、ふんわりと流れていく。常日頃は直毛すぎるほどに直毛な髪が、ふわふわとしたウェーブになっているのは、三つ編みのためだ。
 この匂いは、子供だった頃、美津子の傍にいた時に、かいだことのある匂いと似ているような気がした。
─それはそうか…
 二人は師弟関係で、同じ屋根の下で生活をしている。日用品からセルフケアの道具まで、美津子の影響を多大に受けているに違いなかった。それほどまでに、美津子と杏奈の距離は近い。それを順正は、喜ばしいことだと思う。美津子になかなか、愛弟子といえる存在ができなかった。あの三つ編みのような髪型の女(沙羅)は別だが。
 沙羅のことを思い出した時、順正は自分が抱いた違和感の正体に気が付いた。
 順正はちらと杏奈を横目で見やった。この小さなひとが、今、あかつきを動かす大きな力となっているとは信じがたい。一見落ち着いていて、おっとりして見える。しかし実際は常に頭を回転させ、手足を動かし、あかつきの仕事に尽力している。
 映画には興味があるのかないのか、ひどく眠たそうな顔をしている。今にも眠ってしまいそうだ。けれども、眠そうに見えるからといって、一年ほど前に見たような、やる気がなく、心がタマスに傾いているという印象は、受けなかった。
 作戦は見事成功し、城は陥落する。
「はっ…」
 杏奈はそこで、眠たげながらもはっと息を呑んだ。最強の英雄が、踵(かかと)の上の急所を射抜かれてしまったのだ。
「死んじゃうんですか」
「この映画で唯一、学びを得られるシーンだ」
 順正の返事は答えになっていない。
 英雄の名は、現代でも知られる「アキレス腱」の語源である。英雄の母親・ティティスは、子供を不死身にしようと、死者の国の泉ステュクスに生まれたばかりの我が子を浸した。その時、母親が掴んでいた場所が踵の少し上だった。そこだけ泉の水がかからなかったために弱点となり、後にここを弓矢で射られて死に至る。ゆえに、足首の後ろに存在する腱は、アキレス腱と呼ばれるようになったのだ。
 エンドロールを見ながら、杏奈はふうと息を吐いた。
 結局、細かい内容は頭に入ってこなかった。スペクタクル・シーンは見応えがあったが、痛々しい戦闘シーンは、やはり好きには慣れない。確かに、順正の言う通り、キャストの肉体美ばかりがやたらと印象に残る映画である。
 ふと順正に目を向けて、杏奈は息をひそめた。目を閉じている。顔の右側をソファの背につけて脱力しているが、眠っているのだろうか。
 杏奈は笑いそうになった。歴史戦争映画に毒々しい突っ込みを入れていたのも可笑しかったが、激務の合間にあかつきに来て、こんな実のない時間を過ごしているとは、この医師は何をしているのだろうと思う。
 書斎のカーテンを、なるべく静かに閉めた。窓から入ってくる光は柔らかいけれど、眠りの妨げになるといけない。
 真紀から感じた、理知的な賢さは、順正からも感じる。
─先生らしい、か。
 こういう映画を軽く笑ったり感動したりして見ずに、冷静に見ているところなどは。らしいとは言っても、自分はこのひとのことをよく知らないのだが。
 エンドロールが終わると、再生リストの画面に切り替わった。杏奈は再び音が出る前にテレビを切った。
 あかつきはどの部屋も落ち着いた装いだが、この書斎もそうである。南側と西側に大きな窓を設けた洋室で、午後もよく日が入る。普段は花柄の刺繍が施された、美しいレースのカーテンだけが窓を覆っている。今はそれに加えて、若葉色のドレープカーテンが窓を覆う。
 最近、この書斎がお茶室化するのは、部屋が明るいという理由の他に、ソファである。ローテーブルと、それを挟んで置かれている、二つのソファ。とても座り心地が良い。事務作業に使われることもあるが、基本的にはここは、憩いの空間。
─落ち着く。
 クライアントがいる時、あかつきは戦場のようになるが、今は落ち着く場所である。もしかしたら、今や、杏奈にとって実家よりも安心できる場所となっているかもしれない。
 驚くべきことというか、杏奈にとっての新発見は、そんな憩いの空間にこのひとが居合わせても、その落ち着きが壊れないことであった。歯に衣着せぬ物言いで、批判めいた正論を浴びせる彼のことを、かつてはあれほど怖がり、嫌煙していたというのに。
 顔の向きはさっきと同じまま、目を瞑っている順正を、杏奈は無意識に手で口を覆った状態で見やった。ゆったりとした冬服を着ていても、その輪郭が、彼の肩幅の広さや、痩せていてもがっしりとした体つきを表している。
 順正の端麗さには、とっくに気が付いていた。
 胸が膨らむような感覚がある。杏奈はそれを、なるべく意識しないようにする。ただ、自然と頬は緩んでしまった。順正が目を閉じているのをいいことに、先ほど腰掛けたソファアームに右の頬をつけ、身体を横たえらせた。少しだけ体を休めるつもりだったのが、急速に意識が薄れていく。体力的に、もう限界だった。
 睡眠と覚醒のはざまで、杏奈は妙に安心感を覚えていた。どうしてなのだろうか。
「…」
 あまりにも人の気配を感じなくなったので、順正は薄目を開けた。ほんのわずかな間、ソファの心地よさと、陽差しの暖かさが相まって、まどろんでしまった。すう、と呼吸音が聞こえる。覚醒時のそれではなく、人が睡眠に入った時の呼吸音だ。対面を見ると、杏奈が向かいのソファで横寝している。ひざ掛けをきちんとかけることもなく、呼吸に合わせて胸を上下させる他は、全く動いていない。
─正気か。
 二人しかいない家の中で、異性の前で無防備に眠りこけている女を見て、さすがに順正は驚いた。といっても、そういう自分だってついさっきまで意識を飛ばしていたので、人のことは言えないのだが。
 耳を澄ます。
 外の音は何も聞こえない。風がなく、この当たりには滅多に人も車も通らない。そもそも建物が重厚な造りで、車が停まる音でさえ、注意して聞いていないと気づかないほど。
 だから今聞えるのは、杏奈の呼吸音だけ。すうすうと規則正しい寝息を立てて眠っている。
 順正は心の中でため息を吐いた。物音を立てるわけにはいかなさそうだ。
 杏奈が横寝しているのを目にした瞬間、順正は学生時代を思い出した。順正の気を引こうと、欲動を掻きたてようと、自ら媚態をさらす女を、これまでにたくさん見てきた。でも、この女の普段の素行からは、そんな裏心があるとは考えられないし、この寝入りようは、相当お疲れであったようだ。もともと、ひどく疲れていることには最初から気づいていたが。それをさしおいても、
─抜けてる。
 と、順正は思う。このひとはどこか抜けている。美津子が認めているというから、仕事に対してはしっかり臨むのだろうと思う。現に、資料やネット上での発信を見ても、このひとの書く文章は、思わず読み込んでしまう。けれども、普段はどこかふわふわしている。男と二人きりの空間で寝落ちしてしまうような、間の抜けた性格も、たどたどしい話し方も、
─髪の毛も…。
 記憶にある限り直毛だったが、先ほどまでのヘアスタイルの影響か、ゆるくウェーブしている。
 それにしても、よくこの小さなソファにすっぽりと体が収まるものだ。頭をアームにのせ、膝を曲げているとはいえ、隣に一人くらいは座れるスペースができるとは、どういうことか。なんとなくそう思った後で、順正は視線をそらした。ソファや体を伝う髪の毛を眺めているうちに、視線で体の輪郭をなぞっているのに気づいてしまった。
 視線をそらした先に、ノートパソコンと、その上にのっているファイルと資料があった。資料はカルテだと一目で分かる。日付とクライアントの情報、担当者の名前が書いてある。個人情報のファイルを盗み見るのはよくないが、ぱっと目に入る限り、杏奈が午前中に担当していた女性は、小柄な自身よりもだいぶ上背も重さもある者だったようだ。
─なんのために…
 このひとはなぜ、なんのために、ここで働いているのだろう。こんなに疲れ果てるまで、身を粉にして努力を重ねる、その原動力はどこから来ているのだろうか。
 けれど、その思考は長くは、続かなかった。部屋の中はぬくぬくと温かくて、まるで春の海の中のようだ。
 順正は意識が揺れて、まともに頭が働かなくなった。

─どういう状況?
 南天丸がいるのを見て、順正が来ているのかもしれないと思った美津子だったが、書斎のカーテンが閉まっているので、もしかしたら仮眠を取っているのではと静かに母屋に入った。
 そうしたら、本当にすやすやと寝入っていた。しかし、美津子がびっくりしたのは、順正と杏奈が同じ空間で眠っていたからだった。杏奈にしても、順正にしても、らしくないことだと思う。
 ローテーブルの上には、お盆に乗ったポットと急須、それに湯呑が二つ。二人でお茶を飲みながらゆっくりしていたような状況も驚くべきだが、まさか、話しているうちに眠り込む二人ではあるまい。
 美津子は最初は目を見張っていたものの、二人を見ている間に、思わずクスクスと笑ってしまう。らしくもないと思ったが、よく考えてみれば、なんともこの二人らしいエンストの仕方だと思った。
 杏奈は、あかつきに務めて以来、最も大きな波を乗り越えた。順正もまた日ごろの業務で、疲れが溜まっているのだろう。本人はやせ我慢をして、みじんもそんな姿を見せないのだが…こうなるまで、二人とも自分を止められなかったのだ。
─全てを出し切った。
 というように眠っている二人が、美津子の目には、遊び疲れて眠る子供のようにかわいく映る。二人とも、自分の仕事が好きなのだ。暇さえあれば仕事をしようとしている。でもそこに、みじんも「やらされ感」はなく、遊びに夢中になっているのと同じなのだろう。
 ぱち。
 順正は目を開けると、首をひねって、人の気配がするほうを見た。美津子は少し気まずそうに、もぞっと動いた。
 順正はだるそうに上体を起こすと、両脚に肘を置いて、頭を垂れたまましばし動かなかったが、やがておもむろに席を立った。
「びっくりしたわ」
 静かに書斎を出て、居室に入ると、美津子は開口一番そう言った。
「帰ったら二人とも寝てるんだもの」
 順正は、まだ寝起きで目が開き切らなかったが、美津子に続いて敷居をまたいだ。わずかな時間ではあったが、本当に寝てしまった。
「杏奈も無防備ね」
「別に何もしない」
「分かってるわ。よっぽど疲れてたのね」
 美津子は、ここ最近のあかつきの状況を端的に話した。順正の思考はまだおぼつかなかったが、とにかく忙しかったということだけは分かっている。
「それにしても驚いたわ」
 美津子はまだ同じことを言った。
「お茶して、お話して、気付いたら寝てたってこと?」
「暇だし映画を見てた…」
「映画?なんの?」
「トロイア戦記…」
「あ、人の録画を勝手にあさったわね」
 しかもそのチョイスはどっちがしたのか。
 順正は頭を左右に傾けた。ポキポキと音が鳴った。
「やけに障がい児関連のドキュメンタリーが多かったな」
 順正はそう言いつつ、美津子の斜め向かいに座った。録画してあった番組のことを言っているのだろう。
「…先生のところへは、何をしに行ってたの?」
「ご縁さまから預かっているクライアントがいてね」
 先日、鞍馬からそのクライアント・山本の状況を聞き出し、美津子は経過報告をしに行ったのだ。
「ご苦労なことだな」
 美津子とて、忙しい日々を終えたばかりだったろうに。
「私も久しぶりにこんなに働いてね…疲れてしまったので、明日から動けるか、自信がなかったのよ」
 それで、やるべきことは先にやっておいたのだ。
「ふうん」
 順正は気のない返事をした。
 美津子は今度は、本当に可笑しそうにふふふと笑った。まじまじと顔を見られているのがこそばゆい気がして、
「なんだ」
「いや…前に、私と杏奈が似ているという話をしたけれど」
 よほど面白いのか、美津子は口元に手を当てて、まだ笑っている。
「思えば、あなたと杏奈もよく似ているわ」
 何を笑っているのかと思えば。そんなこと、ちっとも可笑しくない。可笑しくはないが…
 順正は杏奈のことをそんなに知っているわけではないが、なんとなく、感覚的にだけれど、分からないでもない気がした。けれど、やすやすと認めてやるのも面白くなかった。
「おれはあんなに…ぼうっとしてない」
「よく言うわ」
 あまり笑い過ぎると、この難しい男の気を損ねてしまいかねないので、美津子はほどほどに抑えながら、
「ずい分前のことだけれど、松下先生が、こんなことを仰っておられた」
 順正は時々、深淵な表情をしたまま、無言を通していることがある。それを見たスタッフは、何か難しい考え事をしているのだと思って、気を遣ってそっとしておくのが常である。しかし、松下には分かっている。そういう時、順正は何も考えていない。ただぼうっとしているだけなのだ、と。それを話すと、美津子はまた笑い出した。
 ちっとも面白くない。順正は前髪をかき上げ、後ろに流した。
─やれやれ。
 休みの日に、用もなくふらりと訪れたあかつきで、こんな風に美津子からおちょくられてしまうとは。順正はひどく自分が滑稽に思えた。
「あら、ごめんなさい」
 美津子は沈黙を破るように、咳ばらいをした。
「あ、あの件は、ありがとう。近藤さんのこと」
 それなら先ほど杏奈にも例を言われた。順正は急に目を光らせて、美津子を見やった。
「クライアントから要望があったとはいえ、そんな際どいところまで深入りするんだな」
 そこが、アロパシーとは違うところだ。
「こちらは基本、クリニックで知り得た情報しか記録しない」
 ハイリスクと思われる要素がない限り、妊婦がどんな精神状態で、どんな性格で、何を食べ、どんな仕事をしているか、詳しく聞き取ることはない。
「まあね」
 美津子はようやく、笑いのツボをひっこめた。
「アーユルヴェーダのやり方で人を癒すには、時には感情移入したり、共感したりすることが欠かせないから、ある程度深いところまでお話をしないと…」
 もちろん、そのせいで自分がクライアントの感情に呑まれてはならないけれど。
 順正はふんと鼻を鳴らした。
「誰かに共感されても、健全な妊娠にもお産にも結び付かない」
「本当に?」
 美津子は即座に訊き返した。順正の切れ長の目は、美津子に向いたまま。
「結果を左右するような影響ではなかったとしても、微細な影響はもたらすはずよ。誰かに感情をシェアし、共感したり共感されたりすることは、その人がどの段階にいるにせよ必要だと思う」
 心の経路の流れを、スムーズにしておくために。
「ここの場合はそうかもしれんが…こっちは、特定の患者には入れ込まない」
 人によっては、ある程度の思い入れを、特定の患者に抱くのだが、それが強みになることもあれば、逆にバーンアウトするきっかけとなることもある。
「お産は何があるか分からない」
 たくさんの生と立ち会うと同時に、悲しみと相対することも少なくない。
 美津子はそう言う順正の瞳に視線を向けた。
「そういえば、前にここに来ていた子の母親が、出産した」
「前にここに来ていた…」
 遭難事件で、一緒にあかつきで待機した、あの中学生の女の子のことか。
「名前は莉子ちゃんだった?」
 順正は頷いた。
「親が再婚した子だったわね。新しいお父さんとの間の子が?」
 順正はまた頷いた。
「そう…で、彼女は大丈夫?」
 もう美津子からは視線を逸らしていた順正は、床の間の花を眺めながら、再度頷く。
「あの子は、大丈夫だ…蓮なんかより、よっぽど大人だよ」
 そう言って、順正は嘲けるような笑みを浮かべた。
「蓮くんは、どう?元気?」
「最近会ってない」
「何、喧嘩でもしたの?」
 喧嘩というほどのことでもない。が、ハイウォールで順正がこっぴどく説教をした結果、最近蓮は、ハイウォールに来る頻度も減ったという。莉子の母親が出産した日に会って以来、順正がジムに行っても、蓮と鉢合わせることはなかった。
「蓮のことはいい」
 と、順正は言った。美津子は、そんな風に言われる蓮が不憫であった。
「ミツはどうなんだ。お前がそっちの領域に行くことを、待っている人がいるんじゃないのか」
 そう言われると、美津子は肩をすくめ、作り笑いを浮かべた。
「まだなんの能力もない私を、待ちわびている人はいないわ。それにね、あかつきは…」
 昨日、今順正が座っているところには、別の男性が座っていた。彼と話をしてから、考えなければならないことに気付かされた。
「まだ、安定稼働というにはほど遠い。もうしばらくは、あかつきの経営に尽力しないと」
「しばらくとか言っていると、いつまでもその時は来ない。スタッフを信頼しているなら、自分の思い早めに打ち明けておいたほうがいい。それを念頭に励んでもらうべきだ」
 その方が、覚悟も芽生える。
「数年なら数年と定めろ。そうすれば何がなんでもその期間にやろうとする」
 本当に、あかつきで働き続けたいと思うのならば。
 しかし、美津子は首を振った。
「そんな重圧をかけたら、離れていってしまいそうで、とてもできない」
「離れていったら、それだけの思いだった、というだけの話だ」
 順正はなんでもないことのように言った。それに、今書斎で寝ているひとは、そんな重圧にはめげないほどの原動力をもっていそうだ。
 原動力、というところに思い至った時、順正はあの違和感を思い出した。自分が何気なく発した疑問に対し、あのひとは映画を見ている間も、その答えを律義にも考えていたようだ。その答えに、違和感を覚えた。想像だと言っていたが…もし、答えたのが沙羅であったなら、そのような違和感はなかっただろうが…。
「そんなにばっさりと斬り捨ててしまえるものですか」
 美津子は順正の言葉をにべもなく突っぱねた。美津子の声で、別のことを考え始めていた順正は我に帰った。
「面倒見がいいんだな。二兎を追わず、一兎を追ったほうが楽なのに」
「これでも元幼稚園教諭だもの」
 そう言って、美津子はふっと相好を崩した。

 順正が母屋から外に出てきた時、いつの間に起きていたのか、杏奈は外で洗濯物をたたんでかごの中に入れているところだった。順正を見ると、気まずそうな顔をして会釈をする。
 杏奈はもう普段着に着替えていた。あれだけ癖がついていた髪の毛は、今はもう元通りのストレートになり、すんなりと背中に流れている。
 パーカーの襟に埋めた顎をわずかに引いただけで、順正は挨拶の言葉を発することなく、庭を横切っていった。南天丸は従順に彼の後を追った。
 杏奈が母屋の中に入ると、応接間に美津子の姿が見えた。
「美津子さん、すみません。私寝ちゃってて…」
 順正がいるのに、その目の前で寝てしまったとは言えないが、見られただろうか…
 美津子は笑い交じりの声で、
「お疲れさま」
 と言った。
 それで杏奈は、ますます恥じ入ってしまい、そそくさと洗濯物かごを持って脱衣所に移動した。眠ってしまったこと自体は、恥ずかしかった。しかもよりによって、あのひとの前でだ。けれど、自分の限界まで頑張りたいと思えることに出会い、実際に頑張ることができたことは、杏奈にとって嬉しいことだった。
 久しぶりの、美津子と二人の夕食。完全な和食だった。出汁の香りに心底安心感を覚えながら、杏奈は味噌汁を啜る。
 美津子は、杏奈に順正との会話の一部を話した。
─特定の患者には入れ込まない。
 その言葉は、出産の光と影を、如実に物語っている。
「産科で働いていると…生と死を、隣り合わせに目撃するのでしょうね」
 それによる精神的な影響は、杏奈には計り知れないが、皆無ではないことだけは想像がつく。それだけに、すごい職業だと、杏奈は思う。
 美津子は箸を進めながら、静かに言った。
「人の心を持って、悲しいケースに当たり続けるのは、辛いことでしょうね」
 順正は、外傷を見るのも、メスを入れるのも、慣れだと言った。同じように、出産という最も輝かしい瞬間に隣り合わせる、死を目撃する心への影響も、慣れでなんとかなるのだろうか。

 

 


 

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