用事もないのに、近くを車で通りがかった時には、その店の前を通り過ぎる。シャッターが下ろされていて、店の中は見えない。
以前、その店の中には、色とりどりの季節の花が並んでいた。手作りのブーケやアレンジメントも。小さなかわいい男の子とその若い父親が店に帰ってくると、花屋の女は、にっこりと笑顔で出迎えた。
あの日常は二度と戻って来ない。
松下クリニックの仕事は、少し楽になった。妊婦の数が減ったからかもしれない。
順正はその日、早めに自宅に戻ると、取り掛かれないままになっていた研究に励んだ。ハイウォールに行く気には、なぜかなれなかった。それでも、体や脳を疲れさせる必要があった。
近頃、よく眠れない。不安そうにこちらを見やっていた達磨の顔が、目の前に浮かんで、安眠することができないのだ。
誰か、あの子を、助けてくれないだろうか。自分がかつて、心ある大人たちに、引き上げてもらったように…
三十余年前のこと。
順正の父・細川は、五年間の病院勤務の後、カナダの大学病院での臨床研修プログラムに特別研究員として参加。細川の妻・しおりと、生後半年の順正もカナダへ渡った。
しおりが夫に同行することを決めるのには、勇気がいった。子供を産んで間がなかったし、産休が空けたら職場復帰するつもりだったからだ。大学院まで出て入社した製薬会社で、希望していた研究部門に就いていた。それを手放すのは、惜しい。
それでもしおりが同行を決めたのは、細川が子供の成長を近くで見守りたいと、強く希望したから。
見知らぬ土地での、初めての育児。頼れる人もおらず、泣きたい日々が続いた。英語はできるほうだったが、子供を看ながら片手間で誰かと喋れるほど会話に関しては堪能ではなく、必然的に家にいることが多くなった。
その時、しおりが始めたのが、英米文学の翻訳である。語学により強くなればとの思いもあったが、物語の世界に飛び込むことは、しおりにとって一時の癒しであった。
そして、二年半の海外生活を経て、帰国。
しおりは薬剤師として働くために勉強をし直した。が、その間、研究部門での仕事に未練を残している自分を認識することとなる。
細川は、帰国後新しい病院に赴任した。そこで、カナダで得てきた専門性の高い臨床トレーニングを還元する。優秀な医師として評価された。しばらくして、ある女性と関わりをもつようになる。母親を見舞いに病院に通っている女性だった。
ある時、その女性が病院の外のベンチで、手作りらしいお弁当を子供に食べさせているのを見る。順正と同じくらいの年頃の女の子であった。愛情深そうなその女性の姿に、細川は感銘を受けた。聞けば、女性はシングルマザーだという。突然の事故で、夫は他界。夫の保険金があったし、女性は以前から派遣社員として働いていたものの、収入は少なく、今後のことを思えば贅沢な生活はできない。同時に母親が体調を崩し、看病をすることとなった。
情に厚い細川は、女性の事情を知り、同情を寄せる。
母親の見舞いに来るたびに、言葉を交わすようになる。二人がベンチで弁当を食べている姿を見かけると、その娘にも声をかけ、昼休みの間少しだけ一緒に遊んでやった。
彼女の母が亡くなった時、彼女の落ち込みようは激しく、細川は個人的に連絡を取ってしまう。いつしか、その女性に同情ではなく、愛情を抱くようになっていたのだ。
そしてある時、一線を越えてしまう。
海外で臨床医としての経験を積み、専門性を高めたい。だけど子供の成長を見守りたいから、一緒についてきてほしい。
細川の希望を叶えるため、自分の生活を変えてきたしおりは、夫の浮気を知り、堪忍袋の緒が切れた。しかも、こともあろうに、不倫相手の女性は、みごもっているという。
そこでしおりは、理解ある妻のフリをしていた自分を、呪った。自分の人生を犠牲にしてしまったと、初めて気が付いた。どす黒い感情が腹の底から湧き上がり、怒りがこみ上げる。
それからは喧嘩が絶えない日々が続いた。
─話がしたい。
それでも、細川は早急にしおりと大事な話をしなければならなかった。お腹の中の子は、どんどん育っているのである。
─この下衆が…!
しおりはもはや、はばかりなく言葉遣いを荒げた。順正が見ていても、汚い言葉を平気で使った。夫のことはもう、給料を運んでくる同居人としか、見なしていない。
─けんかしないで!
順正は二人が口論していると、最初のほうこそ、そう言って止めに入った。保育園で、子供同士がおもちゃの取り合いをしていると、そう言って先生が割って入っていたのだろう。
しかし、両親の喧嘩は、そんな甘っちょろいものではなかった。喧嘩の最中に割り込んできた順正に、しおりはぶち切れてしまう。
─うるさいっ!
しおりは日に日に感情的になっていった。
細川は、反対に冷静さを保っていた。自分のせいでそうなっているのにおかしな話だが、自分がいない間、しおりが順正にどう接しているのか心配になった。細川は、子育てをする時間こそ少なかったものの、順正を愛していた。順正と一緒に遊ぶ時間を豊かな時間だと感じていた。彼なりに、子育てを楽しんでいたのだ。
家の中で夫婦が居合わせると雰囲気が悪くなるが、細川は順正が起きている間、なんとか明るさを取り繕い、遊び相手になった。
順正は、両親が喧嘩をしていても、次第に口出ししてこなくなった。そっと、その場を立ち去っていく。
父と母が同じ家にいるのに、一緒にごはんを食べない。口を利かない。口を開くと喧嘩する。
─そういう状況の中で、健全な成長を遂げられるのか。
細川は、それを憂慮した。
不倫相手の女性は、子供をおろさなかった。一人でも育てていくと言った。
細川は悩んだ。女性にはもはや両親はおらず、仕事も不安定だ。自分がいなければ、しおりはあそこまで感情的にならないだろうとも思う。
細川は、しおりと離婚することに決めた。しかし、しおりは簡単には承諾しない。しおりが自分に対し抱えている感情を思えば、しおりこそ離婚を望んでいるのだろうに…。そうはさせないのは、もしかしたら、不倫相手を痛めつけたいからかもしれなかった。その時、しおりは不倫相手から慰謝料を取るつもりで動いていた。
─頼む!
細川はひたすら謝った。土下座もした。その様子を、順正が目撃することもあった。
離婚に至るまで、揉めに揉めたが、結局、離婚。しおりと順正は、しおりの実家のある上沢に引っ越し。
しおりはしばらく、無職であった。精神状態が荒んでいたし、上沢でしおりが納得できる仕事というのも、得にくかった。
順正の面倒を看たのはしおりの両親であった。
─かわいそうに。
順正の祖母は、よくしおりに言った。不仲になった両親、離婚のいざこざ、父親との別離。慣れない環境での、精神的に不安定な母親との生活。そんな環境の中で、この子は暮らしていかなければならない。
─親の愛情を十分に受けられなかった子供はね、自己肯定感を失うんだよ。
背を向け、分厚い本と原稿に向き合う娘の背中に、祖母は語り掛けた。
─これからする、全ての選択が、その脆い自己認識の上に、立っていくんだ。
しかし、しおりは全然、聞く耳を持たない。失われた自分の人生を取り戻そうと必死だった。
しおりは口うるさい両親と離れるため、アパートを借りた。それでも、順正の世話をするのは祖父母。しおりは、順正が帰ってからも、ほとんど遊び相手になってくれなかったし、話もろくにしてくれなかった。
狭いアパートの中で、二人は布団を並べて敷いて眠る。
─いやだなぁ…。
順正は夜中、ひっそりと涙ぐむことがあった。心臓が、ぎゅうっと締め付けられる。そんな感覚を味わう日が続く。父親がいた頃は、こう連日、心臓の痛みを覚えることはなかった。
─いやだなぁ…。
母が寝ている傍で、ひっそりと泣く。古いおもちゃの車を、足元に投げ出して。
─つぎのたんじょうびに、かってくれるっていったのに。
新しい車はもう、買ってもらえない。父にはもう会えない。でも会いたい。
心にもし形があり、それが目に見えているのなら、今そこから、おびただしい血が流れているだろう。ある部分が、引きちぎられているだろう。愛しい存在と離れるとは、こんなにも苦しいことなのか。それならもう、愛しい存在など、永遠にできないほうが良い。
別れるのが辛すぎるから。
─大切な人がいるのは、幸せなのかもしれないけれど、すごくつらいことのようにも思える。
いつも怒っていて、自分を顧みない母のことを、恨めしく思う。そんな気持ちとは裏腹に、この母がかけがえのない存在であることも、ひしひしと感じている。たった一人の母親なのだ。そんな母に、抱きしめてもらいたい。そんな感情が浮かぶ。
─おかあさん。
順正は、自分に背中を向けて横寝している母の背中に、手を差し伸べる。熱を帯びた、湿っぽい空気に触れた。
しかし、母親の背中には、触れられなかった。
美津子はその頃、スリランカでの修行を終えて、足込幼稚園で働いていた。
三十二歳。
二十代の頃の時間は、幼児教育と、恐山へ旅した時に老婆からもたった言葉─毒素を溶かすと、魂が見えやすい─の意味を探求することに注いだ。そして、毒素を溶かすことに関し、多くの知識を有するアーユルヴェーダのトリートメントを、スリランカで学んだ。これからそのアーユルヴェーダの知恵とスキルを、どのようなことに使えるか。具体的なことは分からなかったが、自分にバランスをもたらす方法を知っているというだけでも、価値があると思っていた。
─できないよぅ。
美津子が受け持っているゼロから二歳児クラスの男の子は、いつもズボンがうまく履けなくて、よく足をバタバタさせていた。
─もう一回やってみよう。
美津子は根気よく、男の子に声をかけた。その男の子がやる気を出せるよう、様々な工夫をする。
─ズボン履けたら、お着換えカードがもらえるよ。
─カードもらう~
廃材の段ボールを切り取って、みんなにシールを貼ってもらい、カードを作る。着替えをする時には、そのカードを自分のボックスに入れてもらい、それから着替えをする。そうすると、カードをボックスに入れたくて、子供たちは積極的になる。少なくとも、少しの間は。みんなが飽きたら、また別の工夫をする。
─磯貝先生って、どれだけアイディアもってるの。
新任の保育士だったにも関わらず、美津子はすぐに、幼稚園の中で頼られる存在になった。
─磯貝先生。
午後の遅い時間、残っている園児が数人になった頃、加藤がゼロから二歳児が集まるクラスに顔を覗かせた。
─園長先生…
その頃加藤は、父親からこの幼稚園の経営を引き継ぎ、時々園に顔を覗かせていた。
─慣れましたか。
─おかげさまで。
加藤はふっと頬を緩め、二度ほど小さく頷き、部屋を出ていく。その頃から坊主頭だったが、目鼻立ちのくっきりとした端麗な顔立ちをした、精悍な僧侶であった。
なによりも美津子は、加藤からとてもサットヴァなオーラを感じていた。
─こんなに穏やかな人には…
会ったことがない。
加藤の妻・ちえみも、幼稚園で働いていた。そのことが美津子には、救いだった。もし近くに彼の妻の存在を感じていなければ、気持ちが止められなかったかもしれない。不貞な気持ちを抱くのは、ヨガではない…
─そろそろ結婚相手を探すべきだろうか…
当時は今より、そういった世話を焼きたがる人が周りに多かったし、年齢的にも遅いくらいだ。美津子は、頭ではそういうことを考えてもよい頃だと分かっていたが、その気が起きない。
その頃美津子は、幼稚園の近くの小さな貸し家に住んでいた。借りている小さな畑で野菜を育て、幼児教育やアーユルヴェーダの学びを深める日々。いつか空き家でも買って、一人で気ままに暮らしていくのも、悪くないかなと思う。
人格形成に多大な影響をもたらす幼少期の子供たちに、愛情を注ぎ続けること。それが当面の自分の使命だと思っていたが、いつかアーユルヴェーダで人を癒すこともしてみたいと思っていた。
子供の頃のトラウマを引きずったまま成長した大人たち。彼・彼女らの中の子供たちを癒すことにも、携わりたいと。
美津子はヨガとアーユルヴェーダを学んでから、幼い頃に経験した母親の死について、自分がどのように今までと違う反応や対応をできるか、学ぶことができた。
ヨガとアーユルヴェーダはなにも、答えを示しているわけではない。解決は、自分自身がするもの。自分には変化が必要だということを受け入れ、変化する決断を下し、そのために何をする必要があるのかを考える。この時、重要なのは、外界から影響を受けた自分の心ではなく、魂に基づいて決断すべき、ということだ。そして、条件づけられた、外部からの影響を受けた心を魂に近づけるのにもまた、二つの教えが役に立つ。
美津子はスリランカの旅を経て、自分の中で何を始め、何をやめるべきかを考えた。それを経て、少しは感情的に成熟できたのではないかと思う。
─おはよう。
花壇の花に水をやっていた加藤に気付かず、園門を開けた美津子は、心臓が飛び跳ねたような心地がした。
─おはようございます。
なんとか挨拶を返したが、心臓はまだドキドキしていた。朝日の中、庭を整える加藤の姿があまりにも清々しくて、美津子はそれを好ましいと思う自分の気持ちを制御できなかった。
職員室に向かいながら、唇をキュッと結ぶ。
─私は今の生活で、満足している…
必死に自分にそう言い聞かせた。
スリランカで感情的な成熟を遂げた…と、思っていたのに、加藤と接する度に、日に日に動揺を深くする自分の心。
この手のことになると、美津子はさっぱり、対処法が分からないのであった。
次の春、美津子は月小学校一年生の夏の遠足に、こっそり同行した。目的は、かつての園児の成長を見守るため。そして、小学校教諭との情報交換を通し、保育上の課題を発見するため。
お弁当の時間に、偶然隣に上沢小学校の一年生たちがレジャーシートを張って、お弁当を食べていた。
─アハハッ、なにそれ~
─ぜーんぶからあげ?
美津子は遠くから、上沢小学校の生徒たちの様子をさりげなく見ていた。何か異様な空気を察したのだ。
─唐揚げだけ…
ある男の子が持って来た弁当箱の中に、買ってきたものらしい唐揚げしか入っていないことに気付いた。背を向けているので男の子の表情は分からないが、別に隠すわけでも、からかう同級生に何か言うでもなく、じっと座っている。
お弁当の時間が終わる頃、美津子はその男の子にそっと近づいた。他の子の多くがもう完食しているのに、彼のお弁当箱の中には、まだ唐揚げが半分ほど、残っている。
─こんにちは。
声をかけられて、こちらを向いた男の子の、涼やかな目元、長いまつ毛。
まったく予期していなかったことだが。
その男の子のあまりのかわいらしさに、涼やかな瞳に、美津子は心を奪われてしまった。
その頃、順正の授業後の居場所は、足込町の民間学童保育だった。しおりの求職活動申告や就労証明がうまくいかず、上沢の公立学童には入れなかったのだ。
同じくらいの歳頃の子たちと、多くの時間を過ごしていたほうがいい。そう判断したのは、順正の祖父母だった。
しかしある時、理由はなんだったのか、その学童で順正は男の子を殴ってしまう。相手の母親は憤慨した。事件の起こった、学童の目と鼻の先にある公園で、職員を含め話をする。
順正が隣町の上沢に住んでおり、母子家庭であることを知ると、
─ああ、やっぱりね。
その母親は眉を吊り上げて、
─だから、この子は暗いものをもってるのね。
もし、順正が足込町に住む子供であったなら、この母親はそんなことは言わなかっただろう。町民同士がみんな顔見知り…という小さな町では、都市部に住むよりも言動に気を付ける必要がある。
順正はその母親を睨みつけたが、その話の中に割って入った者がある。その場を通りがかった加藤だった。
ただの通りすがりの男であれば、邪険にされただけだっただろう。しかし、加藤が明らかに僧侶の風体─改良衣姿─であったし、学童の職員とも当然、顔見知りだったので、話をすることができた。
加藤は順正に非があるのは十分に認め、母親の怒りを鎮めさせた後で、
─子供の心は、環境によってどのようにも形を変えます。
穏やかにそう言った。
─学童も、この子が短くない時間を過ごす環境です。少しでも居心地よくなるように、周りにいる大人たちが気を払わなければなりません。
母親はまだ何かゴネていたが、順正の保護者がいつまで経っても現れないので、しびれを切らして帰っていった。
加藤と順正は、公園のベンチに座って、少し話した。
─お前は、背が高いな。
加藤は順正を責めることなく、微笑を向けて、
─少林寺拳法を習ったら、ものになりそうだ。
─けんぽう?
─ああ。うちの寺で教えている。習いに来るか?
半分は冗談だった。しかし、順正は、
─いきたい。
と言った。
─つよくなって、あんなババァ、ぶっとばしてやる。
一年生の割に…いや、一年生だからなのか、物騒な言葉を使う男の子だった。
加藤は両膝の上に両肘を置き、前かがみになった姿勢のまま、
─強さにも、いろいろある。
諭すように言った。
─少林寺拳法で培うのは、体の強さだけじゃない。
加藤はもう、笑ってはいなかった。
─本当の強さとは何か、よく考えることだ。
男の子は、黙りこくっていた。表情は乏しいが、その瞳の奥には、メラメラと燃えるような感情が籠っているように見えた。
─学びに来るか?
加藤はもう一度訊いた。
善光寺は、順正が授業後の時間を過ごす、もう一つの居場所になった。
美津子と加藤は、順正のことで、二人で話をすることが多くなった。周りに人がいない時、幼稚園の園庭で。学童の傍の公園で。善光寺で。時に、美津子の住む貸し家の近くで。
美津子は順正の母・しおりとの接触をもつようになっていて、その精神状態を危惧していた。
─極端なラジャスと、極端なタマスが交互に現れている状態。
しおりを支配していた感情は、怒りだ。彼女は仕事の鬼になることで、そこから逃れようとしていた。しかし、ある時には、しおりは意気消沈し、薄暗い部屋の隅にうずくまっているだけ。
─なんとかしたい。
美津子の心には、この頃にはすでに、火がついていた。普段穏やかで冷静な美津子が見せる情熱に、加藤は内心驚く。
美津子がしおりの支えになりたいと望むのには、順正の存在が大きかった。それもなんとなく、加藤は分かっている。だからなのだろうか。加藤も順正のことを気に掛けるようになっている。自分でも、贔屓目が入っているのを認めざるを得ないほどに。
─順正。
少林寺拳法の練習の後、夕方になっても帰らない順正に、加藤は声をかけた。
─まだ帰らないのか。
おじいさんか、おばあさんは呼んだのか。
順正は地蔵尊像の前でしゃがんでいたが、加藤が後ろに立つと、顔だけ後ろに向けた。順正が地蔵尊像の前で佇んでいる姿を見るのは、もう何回目だろうか。彼はこの場所から、何かを感じるようなのだ。
小学二年生。だが、その年齢の男の子にしては珍しいと思うくらい、感情を表に出さない。大人しいのとは違う。美津子に言わせれば、感情を抑圧することに慣れている、とのことだった。
加藤は順正の隣にしゃがんで、
─そろそろ帰れ。腹が減ったろう。
─腹は減った。
練習ではかなり体を動かす。順正は答えながら、ぼんやりと地蔵尊像たちを眺めていた。
─ここは日が当たって、暑いだろう。
─別に…
─おじいさんたちを呼んだら、お堂に入って待ってなさい。
─ここでいいよ。
少林寺拳法を学んでいる他の子供たちは、ここを気味悪がる。ビール瓶くらいの大きさの、小さな地蔵尊像で埋め尽くされた、この一角が。けれど順正は、不思議とここに引き寄せられた。
─ぼくも、この中に入っていたらよかった。
順正は、ぼそりとそう言った。順正がそんなことを言うのを聞いたのは、初めてのこと。
─何か、あったのか。
加藤は心の中でつぶやいた。
─ひつようじゃなかったのかもしれないと思う…お母さんにも…お父さんにも。
加藤は、大きな手を順正の肩に回した。
─そんなこと、絶対に言ってはいけないよ。この子たちの前で…
加藤は大きな目を見開いて、地蔵尊像の一つひとつを眺めた。これを買っていった人たちの、複雑な表情を思い出しながら。
─お前も、学校で嫌なことがあったり、すごく好きな友達と喧嘩をしたりしたら…勉強に集中できないだろう。
親に当たってしまうだろう、と言おうとして、加藤はその言葉を飲み込んだ。順正はきっと、今まで親に当たろうとすることからも、自分を制御してきたのだろうから。
─大人になってもね、レベルは違うけど、とても嫌なことがあったり、大変なことがあったりしたら、やらなくちゃいけないこととか、大切なことに、目を向けられないことがあるんだよ。
─…。
─順正は、悪くないさ。でも…だからといって、お前の親が、完全に悪い、というわけでもない。
一方が悪くないのだとすると、その分もう一方が悪い…ということにはならないのだよ、と加藤は付け加えた。
─自分がやさしいまなざしを受けられなかったのなら…
そう言う加藤のまなざしこそが、やさしかった。
─この先、お前が誰かにやさしいまなざしを向けることで、お前も自身も、癒されるんじゃないか。
順正に言いたいことは、たくさんあった。
自分は両親から愛されていなかったという思いに、ずっとしがみついていてはいけない。もっと大きくなったら、相手の立場になって、様々な方向から物事を考えられるようになる。その時には、あの時親はこういう状況だったから、こうするしかなかったのだ、と気付けるようになる。今は無理でも、物事を違う風に見て、違う理解をすることが、必要になってくる。そうでなければ、肉体的な成長はできても、感情的に成熟することはできない。
だが、まだそれを言うには、順正は幼すぎる。現にその時、順正は、加藤が何を言っているのか、理解ができなかった。
─この子の成長を見守り、伝えるべきことを少しずつ伝えていこう…
加藤はこの時心に誓った。
しおりと順正が住むアパートには、時々、美津子がいた。
─おかえり。
美津子は順正が帰ってくると、そう言って目を細め、柔らかい微笑を浮かべる。
そういうことが、時々あった。
季節がめぐり、何度も美津子のおかえりと、柔らかい微笑に触れる。
美津子から向けられる、やさしいまなざしに安心感を覚えるようになった時、順正は、加藤の言葉を思い出し、その意味がなんとなく分かった気がした。
秋になったある時、加藤は順正を連れて、一緒に明神山へ登った。
順正はこの頃からばかに体力があって、頂上までピストンするくらいでは、ちょっと飽き足りない。加藤は岩場に順正を連れていった。そこで、クライミングをしている人たちと会った。
─加藤さんじゃないっすか。
その時声をかけてきた小柄な男こそ、通称鮎太郎と呼ばれる、ハイウォールの元オーナーだった。
─あれぇ?息子さんいました?
─この子は知り合いの子で。
─へえ。三年生?
─いや、二年生。
身長の高さと、異様な落ち着きから、順正は実年齢より上に見られがちだった。
─ふうん。じゃ、これからもっと大きくなるな。
鮎太郎はニッと笑って、
─ラッキーだな。身長が高いほうが、クライミングするには有利だぞ。
順正は男たちが張り付いている高い壁を見上げた。何をやっているのだろう。
─リーチが全てではないけどね。
鮎太郎は、腰に手を当てて、壁に貼りつく仲間たちを眺める。
一人の男が、つららのように上からぶら下がる岩を抱き込んで、その側面を蹴り、次の手を取ろうと手を伸ばしていた。
─身長が高いほうが、ぜったいいいじゃん。
順正はその男を見ながら、ぽつりとつぶやく。鮎太郎は腕組みしながら、ふふふと笑った。
─身長がないよりはあったほうがいいが、もっと大事なものがある。
三人は、明神山の岩場で最も有名な課題に挑戦する男に、視線を集中させた。
男は次の一手を取ったが、力尽き、テンション下さいと言うと間もなく、壁から離れてロープにぶら下がった。
─思いが大事だ。
─思い…
─そうだ。
この壁をなんとしても登り切るという強い思いがあれば、何度も練習する。そのうちに筋肉が発達し、体が動きを覚えて、定めた目標に到達する。
最も大切なのは、思いだ。
─この山を上沢のほうへ下ったところに、僕のジムがあるから、そのうち登りに来てよ。
鮎太郎は、そう言って順正に微笑みかけた。日に焼けて、がに股で、タバコくさい。鮎太郎は男っぽい男であった。その瞳は少年のようにきらきらと光っている。
順正はほどなくして、ハイウォールを訪れ、クライミングを練習するようになった。そうなると、鮎太郎は手厳しく順正に指導するようになる。それでも、この男が順正に向けるまなざしもまた、やさしい。
順正はだんだんと、学童にいる時間が減り、善光寺か、ハイウォールで、下校後の時間を過ごすようになった。
しおりの心は、少しずつ落ち着きを取り戻した。精力的に仕事に励んだ甲斐もあって、なんとか案件を獲得できるようになっている。
上沢には仕事が少ない中、幸いにも、原稿の郵送さえできれば報酬を得られる翻訳スキルと文才を、しおりは持っていた。しかし、皮肉なことにそれは、細川について海外で暮らしていた時に、身に着けた知識とスキルであった。
初めて高く評価されたのは、子供向けの児童文学だった。助言をくれた者がいた。足込町の学童や善光寺に時折出入りしている、磯貝美津子という保育士で、子供の頃の感覚をすでに忘れているしおりには思いつかない目線を提示してくれた。
美津子には戦略があった。美津子は、しおりを一目見た時から、高い知性とプライドの持ち主だと見抜いた。いわゆるピッタタイプだ。ピッタが優勢な人は、仕事に有益な情報を得ることに興味がある。その心理を巧みに利用して近づいた。しおりもまた、美津子の聡明さにすぐに気が付いた。美津子と会話すると、仕事上有益な観点を得られるので、たまに学童に迎えに行く時に、話すようになった。次第に、ただ話すのが楽しいからという理由で、仕事と関係ないことをしゃべるようになった。自分の人生を取り戻すことにがむしゃらになっていたしおりは、心置きなく話せる友の存在によって、少しずつ、緊張を和らげ、心から笑うことができるようになったのだ。
しおりは少しずつ、順正に目を向けられるようにもなっている。けれど、一回距離が離れてしまった双方の心は簡単には戻らず、親子のコミュニケーションはぎくしゃくしたまま。そこに美津子がいると、この母子は、二人きりの時よりも、少しスムーズに話すことができた。
─じゃあね、先生。
順正は、少林寺拳法の師匠である加藤に対しては、少し打ち解けた言葉で話しつつも、礼儀をわきまえるようになっている。
夕方、順正が寺を去ろうとした時、美津子が稽古場である広場に歩み寄ってくるのが見えた。
─ミツ。
それは、順正がつけた美津子の愛称であった。
─順正、行くわよ。
順正の祖父は、体調を崩し、祖母も運転が不安だと言い出すようになった。しおりが送り迎えをすることもあるが、時には、美津子や加藤が、順正を送り届けることも。
─ミツ、か。
踵を返して歩き出した美津子の後ろで、加藤はふふっと笑った。
─いい呼び名だな。
加藤はそれまで、美津子のことを磯貝先生と呼んでいたが、この頃から、順正といる時には「ミツ」と呼ぶようになった。美津子にとっては、小恥ずかしいような、嬉しいような。
このことだけではない。いつしか、順正を通して、美津子は加藤との間に、子供を見守る夫婦のような絆を感じ出していた。そのことが嬉しいと思ってしまう。
加藤は、美津子の家を訪れる時、敷地の中には一歩も入らない。それがかえって美津子に、自分は女で、加藤は男だということを、生々しく認識させる。そういう感慨を抱く時、美津子は同時に、罪悪感を抱いた。
─あの子の父親と私、何が違うのか。
表面的なところは異なる。しかし、内側で起こっていることは、ほとんど違いがないのではないか。
─おかしなことだ。
美津子は、加藤と接している時、サットヴァに満ちたエネルギーに触れているようで、心が安らいだ。
しかしながら、それと同時に美津子の心には、ヨガ的でない感情が現れる。ヨガの八支則の教えに、ブラフマチャリヤがある。性的エネルギーのコントロール、意味のない性行為を避ける、という意味だ。これは、肉体的な話に留まらない。心で、不貞な想像をしただけでも、この勧戒を守れない。
美津子は、しかし、この先何年も、融通の利かない恋心を持ち続けることになる。
─ミツ!
梅の花が咲くころ、順正は美津子の家まで、ある報告をしに来た。
─受かったよ。
─…!
美津子はその報告を受けて、笑顔を満開にさせる。
順正は、高校受験の結果を美津子に言いに来たのだ。一番に伝えたのが自分だと分かった時、美津子は嬉しさで胸がいっぱいになる。しかし、それは順正と物理的な距離が遠くなり、接する機会が減る、ということでもあるので、少し寂しい。もっとも、高校のない上沢や足込の子たちは、高校進学と同時に、家を出ていくのだが。
順正は名古屋の寮に入った。その頃にはすでに、医学部に進学することを志していた。父親の背中を追っているのかと思うと、しおりは複雑な気分だったが、もっと複雑なのは、そのための学資金のほとんどを、細川からの慰謝料と養育費で賄うことになる…ということだ。細川は、離婚した後も、養育費の支払いを毎月行い、欠かすことがなかった。
順正が次に上沢へ戻ったのは、その年の盆のことだった。しおりに、帰省するよう言われたのだ。そして、いきなり、父と会うように言われた。
大好きだった父親。両親の離婚以来、十年近く、父親と会うことは一度もなかった。それが、どうして今更、急に。
事情は説明されていない。
待ち合わせたのは、上沢で唯一の駅だった。そこまで順正は、自転車で、一人で向かった。
そして、久しぶりに会う父の姿が、記憶にあるそれとかけ離れているのを見て、どういうことなのか悟った。
─死ぬのか。
直感で、そう思った。
後から聞いた話によると、当時、父は末期の肝臓がんに侵され、緩和医療を受けているところだったという。
死の淵にいる父は、高校一年生の順正からしても(もっとも、その頃から順正は背が高かったが)小さく見え、やつれきっていた。
順正は、父に確かめたいことが、本当はたくさんあった。自分と母親と別れてから、どんなことを思って生きてきたのか。会いたいとは思わなかったのか。一日にどのくらい、自分を思い出してくれたのか。父親に問い正したかった。
そして、父に言いたいこともたくさんあった。自分は両親にどんな感情を抱いて生きてきたのか。どんな風に寂しくてつらかったのか。相談したかったこと、聞いてみたかったこと。それらが浮かぶたびに、どんな思いで葬り去ってきたのか。
自分が伝えたかった気持ちを伝えたい。答えてもらいたい。ほんの一部分しか聞き出せず、話せなかったとしても、ほんの一部だけでも、これまで抱えて来た気持ちを消化できるとしたら、この時が最後のチャンスだった。
しかし…
順正は今までずっと抑えられていたにも関わらず、なぜかこの時だけは、感情を制御できなかった。ピクピクと、頬や唇が揺れ、気付いた時には、渾身の力を込めて父を拳で殴っていた。何も、話すことなく。
意外なほどの軽さに、順正は驚いた。父はふらつき、尻もちをついて倒れてしまう。順正の拳は恐ろしく震えた。呼吸が乱れ、目の前で倒れた哀れな男の姿を見て、動揺した。
こんなに、衰弱しているのか。死んでしまうかもしれない。そう思えるほどに、父は弱っていた。
何も言わず、正座で座った父の目を見て、順正はますます混乱してしまう。父の目は、涙でにじみ、鈍い光を放っている。その中には、しかし、悲しみとか、切なさとか、負の感情だけでない。喜び、嬉しさといった感情も、確かにあった。
─大きくなったな、順正。
成長した姿を見られて嬉しかった。細川の気持ちは、声には出なかった。
順正は、自分が何を聞きたかったのか、何を言うつもりだったのか、何も分からなくなった。頭が真っ白になって、けれど腹の底から湧き上がる感情を抑えきれなくて、父の前に両膝つくと、もう一発、父親の顔面を殴った。一発目は、母の分だった。だからこれは、父の分。自分たちと幸せになり損ねた、父の分だ。
助走がなかったのと、膝をついていたので、一発目ほどは細川は衝撃を受けなかった。
本当はもう一発、殴ってやろうかと思った。自分の分として。
父は項垂れ、目を閉じたまま動かない。
順正は、もう一発をこの父に浴びせる前に、そこを去った。
─こんな形で会いたくなかった!
なんのために、医者になるために今まで頑張ってきたのか。
頭のどこかで妄想していた。優秀な医師になって、どこかで、その存在を父が聞きつけてくれる場面を。再会する場面を。その時父は、すごいな、と自分を見て感心するのだ。いつか男二人で飲みに行って、本当は手元に置いて育てたかったよ、などと、しんみりと昔のことを語らい、離れていても気にしてくれていたのだという、認識をしたかった。いつしか関係を取り戻す…。そんなことさえ、妄想して、夢見ていたのに。
父に認めてもらいたい。そのためだけに、頑張ってきたのではない。だけど、心のどこかで、少なからずそれを期待していたのに。
一生叶わない。
夕方。
美津子は外出先から家へ戻ると、敷地の外に自転車が停まっているのを見つけた。庭先に入ると、玄関の軒先に一人の男が立っている。
─順正…
美津子は思わず、口をぽかんと開けた。
どこから、自転車でやってきたのだろう。上沢からここまでは、車でも三十分以上はかかる。
─この炎天下の中、どこから…
順正は大量の汗をかいていて、ティーシャツが上半身に張り付いていた。呼吸も荒い。着いたばかりなのだろう。髪の毛から、顔から、玉のように汗が流れている。
しかし、流れているのは汗ばかりではなかった。
順正が泣いているのを初めて見た美津子は、一瞬、呼吸をすることを忘れた。
それから数年後。
善光寺を菩提寺とする一人の老婆が、加藤の元に相談へ来た。その老婆の子供たちが、老婆のもつ敷地・建屋の相続を放棄したいと言ってきたそうである。
─自分で言うのもなんですが、あそこは山に近いけど開けた土地で、土砂災害の心配もなく、丘の上だで洪水の時も安心。
希望する人がいれば譲り渡したい。どうすればよいか、と…
加藤は、誰よりも先に美津子に、その敷地のことを話した。美津子が、アーユルヴェーダの癒しの館を開くことを目標に立て、良い場所を探していることを知っていたのである。
潜在顧客がどこにいるかを考えれば、足込町の外で、その場所を探したほうが良いかもしれなかった。にもかかわらず足込町の中の土地を紹介したのは、加藤のエゴなのかもしれなかった。美津子にしても、最終的にその敷地の購入を決めたのは、同じ理由であろう。
母屋を取り壊した状態での引き渡しとなり、美津子はそこに、今のあかつきの母屋を建てる。離れは比較的新しかったので、リフォームに留めた。家の中の調度品のほとんどは、足込町中の空き家から集められ、町が管理していた道具類の中から購入した。
家が完成し、いよいよ事業を始めようという頃。加藤は、お祝いの花束を持って、あかつきと名付けられた家の正門をくぐった。
─中を見て行ってください。
美津子は嬉しそうに花束受け取ると、家の中へ加藤を招き入れたが、加藤は玄関から先へは、一歩も足を踏み入れようとしない。美津子はこの時、四十七歳。それでも実年齢より、かなり若々しい見た目を保っていた。微笑を浮かべながらも、どこか切ない表情で自分を見つめる加藤に、美津子はそれ以上、家へ上がれなどとは言えなかった。
順正が初めて、あかつきとなった美津子の住まいを訪れたのは、翌年の夏であった。
美津子は順正を、駅まで迎えに行った。順正は駅の前で、大きなザックに腰を下ろして座っていた。
─山に登ってたの?
まだ医学部に在籍する学生であった順正は、夏休みを利用して十日間南アルプスを縦走し、そのまま足込町へ寄ったらしい。確かに、一度名古屋へ戻るよりは効率的である。
それにしても、口ひげなど生やしている姿は、初めて見た。あかつきの風呂を借り、身だしなみを整えた順正を、美津子は改めて眺める。
二十三歳。すらっと身長が高く、顔の輪郭がシャープで、一つ一つのパーツが整っている順正は、男なのに麗しいという形容がひどくあてはまる。それでいて、クライミングに励んでいるからなのか、上半身は厚みがあって男らしく、腰は細く、けれど太ももはがっしりしていた。
まだ医師などではなく学生だが、美津子は久しぶりに順正の姿を見て、なぜか誇らしい気持ちになる。
─十日間も山籠もりしていて、勉強のほうは大丈夫なの?
順正はふっと笑った。もともと、饒舌な男ではないが、小さな頃より一段と口数が少ない。しかし一たび口を開けば、十代の頃よりも声は一回り低くなっていて、声質が安定している。
順正は新しい美津子の住居兼事業所を、一通り見て回った。その中でも、ソファとローテーブルに、たくさんの本が収納された棚の置かれた、明るい洋室─書斎─が気に入った。
─そこにある本、読んでいいわよ。
美津子はそう言って、本棚を指差す。
順正は本棚に収められている本を眺めた。アーユルヴェーダ関連の本ばかり。日本語の本もあるが、洋書もかなり多い。それからヨガの経典、インド哲学の書物、医学書、栄養学の本…
そういえば、ここはアーユルヴェーダの滞在型施設だと聞いていたが、順正はアーユルヴェーダについて、多くを知らなかった。
美津子はヨガとアーユルヴェーダの眼鏡で物事を見ている。母に対してもそうだった。時々、母にトリートメントをしていた。アーユルヴェーダを耳にする度に、最もつらかった幼少期の数年間のことが思い出されて、調べるのが億劫だったのである。
─あなたも医者になるのなら、古代の伝統医学体系の知識を持っていても、悪くはないと思うけど。
そう言われると、知的好奇心と、自己向上心に火がつく。
順正はあかつきに来るたびに、本を読み漁った。
アーユルヴェーダは、何世紀にもわたる叡智を駆使した、ホリスティックな健康へのアプローチを提供する医療体系だ。心・体・魂を統合する必要性を強調する。アーユルヴェーダは、個人の体質をヴァータ、ピッタ、カパの三つドーシャの視点から認識し、それに応じた健康法を提案する。その知識は、五千年という長い時間の中で、あらゆる人に精査されてなお、現代まで受け継がれている。
本当だろうか。
アロパシーの医者となるべく教育を受けている順正は、この伝統医療が本当に有用かどうか、疑問だった。しかし、誰よりも信頼する大人であった美津子が、この考えを支持し、これに基づいたやり方で人を癒す仕事を始めた。
現に、美津子のおかげで、母は救われた。
アーユルヴェーダを信じられるかはさておき、順正は、美津子のことであれば、信じられた。
それから夢のように月日が流れ、十三年後の現代に、話は戻る。
「柴崎先生」
午前の診察が終わった後、順正はクリニックに来ていた敬子に呼ばれて、談話室へ入った。そこには、見慣れぬ女性が二人、椅子から立ち上がって待っていた。
「こちら、上沢市役所福祉課の早川さんと、ベビーシッターで家事代行スタッフの横井さん」
二人は紹介されると、会釈をした。順正も、会釈を返す。
早川は、五十代くらいのややふくよかな女性で、髪色は黒く、ショートカット。横井は、早川よりやや年齢が上に見えた。面長で体は細く、髪はやや茶色、早川よりさらに髪が短かった。
「すみません、お待たせしました」
談話室に、遅れて松下も入って来た。
「吉川さんのことですが」
福祉課の早川は、全員が着席すると、さっそく本題を切り出した。
「最近、クリニックに見えられていますか?」
敬子と松下は、顔を見合わせた。
「いえ、下旬に入ってからは一度も…」
そう答えたのは松下であった。
早川は安堵の混じったため息をついて、片手を頬に当てる。
「それなら良いのですが…福祉課に相談に来られた時も、その…何か、よからぬことをするのではという雰囲気を感じたもんで」
そう言ってから早川は、ごまかすように、頭を掻いた。
「ご本人はまだ混乱されとって、いろいろな手続きのお話をしても心ここにあらずといった感じです」
弘の感情はまだ収まっていないようだ。
家業である花屋の再開の目途も、立っていない。さらに、家事に困っている様子。時間がないというわけではないのだが、もともと、家事が苦手なようで、炊事や掃除など、基本的なところが滞っているようだ。
「そこで、一度この横井さんが、家事代行に入りました。二回分だけですが、上沢から補助金が出るので、お試しで一度使ってもらったんです」
横井は改めて、軽くお辞儀をした。
「私は、にじいろっちゅう、NPO法人地域ケアサポートの職員で、設楽から来てます」
「にじいろの職員さんなんですか…」
敬子は思わず、お辞儀を返す。療育センターにじいろとはたまにやり取りをすることがあった。
「にじいろは本来、重症心身障害者に対して当事者支援や、支援者研修などを行う団体なんですが、まあそのサポートの一環で家事代行ってのをやってましてね」
しゃがれた声で、
「なんか流行りましたよね。作り置きおかずをばーっと並べて、一時間で何品できましたーっていう。わたしゃそんな短時間にいくつも、あくせく作るのは嫌いだで、ああいう感じではできんけど、まあ一通りの家事とか、炊事とかね。そういうのをやらしてもらいました」
なんだか話が横道にそれていたが、最後はなんとか元に戻った。
「ご自宅の中は、思ったより整っとるっちゅうか…まあ、あれだね。弘さんたちのご両親が出入りされとるもんで」
「ご自宅に誰かいらっしゃる時に、手伝いに入られたんですか?」
「ええ。そりゃ、新生児もいますし、用もないのに家事代行が入るからって外に出るっちゅうのは…吉川さん、二人目のお子さんですから、一通りのことはできるんですけど、ちょっと一人目の時の記憶があいまいなところもあって。赤ちゃんのお世話を教えながら、手伝えるところは手伝って…」
横井は、家事代行に入った時に見聞きした、吉川家の状況について話せる範囲で話をした。
「あーんまりこういうこと、しゃべっちゃいかんことになっとるんで、黙っといてください」
横井は目を細めて、念を押した。
「まあ、本当はだめですけど、今回は内密に」
早川も重ねて秘密の話であることを強調した。
「今ンところ、両親が面倒を見に来てくれとるからいいですけど、いない時はね~。ちょっと心配」
横井が率直な感想を述べると、クリニックの三人は少し気落ちした表情になった。
「もうすぐ一か月健診ですが、吉川さん、こちらへいらっしゃいますかねぇ」
「…一週間健診には、弘さんのお母さんが連れて来られてましたけど…次、弘さんが来るかどうかは分かりません」
早川の問いに、松下が答えた。
「まあ、ちょっと遠いけど小児科さんに行かれるかもしれんねぇ。何にせよ、こっちでも赤ちゃんがちゃんと育っとるか目を光らせておきますんで」
「ありがとうございます」
クリニックの一同は早川に頭を下げた。
「いやあ、今回のは、ショックだよね。聞いたこっちもショックだったわ」
横井は少し表情を曇らせて、しゃあしゃあと喋る。
「横井さん」
順正に呼ばれると、横井は表情を引き締め、背筋を伸ばした。
「吉川さんの上のお子さんの様子は、どうでしたか」
それを聞くと、横井はちょっと口ごもって、頬を掻いた。
「あの子、小麦アレルギーなんだわ」
「…」
「だけどパンがいいっていうんだよね。パンなんか食べとりゃせんかったでしょうって言うんだけど、食べとったみたいなんだわ」
どうも、香織が米粉パンを上手に作ったらしい。
「いいお母さんだったみたいだね」
横井はしんみりと言った。
「上沢のおばさんには、ちょいと無理だわ」
「今から学べばいいじゃないの。流行っているじゃない、米粉パン」
隣にいる早川が、横井を小突く。
「私にゃ無理だわ」
「アレルギーのことは分かりました。他には?」
順正は、達磨の精神状態が気になっている。それを知ったところで、何もできないのだけれど…
横井は、答えにくそうな、途方に暮れたような顔をした。
「うん…うん…まあ、やっぱりね。お母さんの記憶があるもんでね」
横井は下を向いて、視線を机の上に落とした。
達磨はよく泣いている。お母さんがどうなったのか、最初の頃は、よく分かっていないようだったが、だんだんと分かり始めたようである。
弘は達磨の遊び相手になる気力が湧かなくて、基本的に、達磨はテレビの録画や動画を見せられている。しかし、その番組が終わったり、広告が出たりするタイミングで、ふいに泣き出すことがあった。
─ぼく、いもうといらない。おかあさんがいい。
そんな言葉を、何度も口にする。その度に、弘の身体がぴくりと反応するので、横井は危機感を抱く。
─いもうと、いらない。おかあさんがいい。
順正の心臓は、誰かにぎゅっと掴まれたかのように痛んだ。達磨も分かっているのだ。妹を産んで、母が死んだと。
「もう、こえぇて…旦那さん、キレちゃうんじゃないかって。包丁どっかに隠して帰ったろかと思ったわ」
あけすけにものを言う横井の膝を、早川はトントンと叩いた。
「まあ、上沢で母乳育児サポートをしとる、篠田さんも、たびたび様子見てくれるって仰ってくれとるもんで…」
篠田のことなら、この場にいるクリニックの三人ももちろん知っている。元助産師で、母乳マッサージがうまく、クリニックに母乳外来に訪れる者があると、篠田を紹介することもある。
「ともかくまあ、みんなで、吉川さんご家族のことを見守っていくしかありませんね」
早川の言葉に、敬子と松下、横井の三人は頷いた。
─子供の心は、環境によってどのようにも形を変えます。
順正の脳裏に、自分を守ろうと、喧嘩の仲裁に入った加藤の姿が蘇ってくる。
─学童も、この子が短くない時間を過ごす環境です。少しでも居心地よくなるように、周りにいる大人たちが気を払わなければなりません。
達磨は、家庭の中だけで育つのではない。地域の中で、いろいろな人の支援を得て、育っていく。かつて順正が、縁もゆかりもなかった、けれど、心ある大人たちの支えの中で、なんとか道を外さずに成長したように。
達磨も、その妹も、弘も、途方もない悲しみを背負いこんでしまったけれど…
「みんな、あの家族に寄り添いたいって、力になりたいって、思ってますよ」
早川が、辛辣な表情を浮かべる順正に向かって、励ますように言った。
「私も、次の代行の時には、あの男の子の好物を作ってみますんで。米粉パンは無理だけど」
横井はそう言った後で、力なく愛想笑いを浮かべた。
「こちらの無理なお願いで…お忙しい中わざわざご報告に来てくださり、ありがとうございました」
敬子はそう言って、二人に深々と頭を下げた。
みんなが、あの家族の力になろうと思っている。その姿を心強く思う一方、順正は、無力感に苛まれた。自分があの家族にしてやれることは、ない。社会の別の役割を担う人たちが、あの小さな男の子にやさしいまなざしを向け、力を尽くしてくれるのを、祈ることしかできない。
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